徳富蘇峰(そほう)が「國民新聞」を創刊した日。現実主義の新聞だったの?

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★歴史★
問題:明治23年(1890年)の今日、2月1日。徳富蘇峰によって「國民新聞」が創刊されました。
■「國民新聞」は、弊クイズにも登場したことがあります。日比谷焼打事件についてのクイズですね*2。明治38年(1905年)、日露戦争の後でポーツマス条約が結ばれます。韓国における日本の優越権の承認、関東州の租借権、長春・旅順間の鉄道の譲渡、南樺太の割譲などが盛り込まれていました。
■でも国民にとっていちばん欲しいものが含まれていませんでした。賠償金です。10年ほど前。日清戦争の勝利では多額の賠償金を獲得しました。人々は「戦争は勝利すれば儲かる賭け」と考えたようです。
■ところが、日露戦争は日本の勝利ではありませんでした。現実としてはロシアの負傷による痛み分けだったようです。血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの水兵たちの反乱などでロシアは戦争継続が難しかったらしい。日本もすでに国力を使い果たし、これ以上は戦う力を持っていなかったといわれます。
■その現実は、多くの新聞は伝えなかったようです。たとえば講和会議後の「朝日新聞」9月1日の紙面には、「講和会議は主客転倒」、「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」、「小村(寿太郎、じゅたろう)許し難し」などという見出しが見られるそうです。朝日以外の新聞にも似たような論調が見られたらしい。
■新聞はよく社会の木鐸(ぼくたく、木の舌のついた大きな鈴)を自称します。実際には社会の団扇(うちわ)、あるいは鞴(ふいご)と呼ぶほうがふさわしいのかもしれません。新聞に煽られた人々は不満の炎を燃え上がらせました。日比谷公園に集まり、講和反対の集会を開き、暴徒と化し、集団心理のおもむくままに交番を焼き打ちし、大臣官邸を襲いました。戒厳令がひかれます。17人が死亡し、500人以上が負傷し、2000人以上が検挙されたそうです。このとき、國民新聞社も襲われたらしい。國民新聞は講和条約に賛成する記事を掲載したそうです。
■「國民新聞」が御用新聞だから講和賛成の記事を掲載したのか。それとも現実を見て人々の進むべき道を示したのか。素人にはわかりません。でも100年ほどたった現在から眺めれば、現実に即しており、理にかなった記事を書いたのは、「朝日新聞」その他ではありません。当時ボロクソに言われた「國民新聞」です。
■「國民新聞」の逸話を紹介するのに時間を使ってしまいました。遅ればせながら、本日のクイズです。國民新聞社の創立者、徳富蘇峰(そほう)という人物についての雑学です。次のうち正しい記述はどれでしょうか?
[い]蘇峰というのは「唐詩選」にも作品が収載されている中国の詩人の名前をパクッたものである
[ろ]19歳の夏に上京し、当時の著名人に次々と面会した。板垣退助だけはなかなか会ってくれなかった
[は]同志社の学生のころ、新島襄(にいじま ゆずる)の説教のあとで外国の飢饉を救うための募金をすることになった。蘇峰はひとり、日本の故郷の不幸を救うのが先だと発言した
[に]蘇峰はせっかちで、人力車夫とか自動車の運転者をステッキで突っついて急がせた
[ほ]「國民新聞」は徳富蘇峰が人生で初めて創刊した定期刊行物である
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[は]、[に]が正しい
説明:
[い]蘇峰というのは「唐詩選」にも作品が収載されている中国の詩人の名前をパクッたものである(×)
■徳富蘇峰は文久(ぶんきゅう)3年1月25日(1863年3月14日)に熊本に生まれたそうです。弟さんも有名人で徳富蘆花(ろか)。「國民新聞」に連載された「不如帰(ふじょき、ほととぎす)」の筆者です。中将の娘片岡浪子(なみこ)は男爵川島武男と幸せに結ばれます。でも、意地悪な運命と意地悪な人間たちのために悲しい死を迎えることになります。短調のハーレクイン小説みたいですね。ベストセラーとなりました*5。
□蘇峰という名前は、故郷の山、阿蘇山にちなんでいるそうです。弟の蘆花のほうは「葦の花が好きだから」という理由で選ばれたらしい。清少納言は「葦(あし、蘆)の花、さらに見所なけれど」と書いたそうです。その見所のないところに蘆花は心を寄せたようです。
[ろ]19歳の夏に上京し、当時の著名人に次々と面会した。板垣退助だけはなかなか会ってくれなかった(○)
■蘇峰は19歳の夏に上京し、中江兆民(ちょうみん)・馬場辰猪(たつい)・福沢諭吉(ゆきち)・田口卯吉(うきち)らと面談したそうです。自由党総裁の板垣退助にも面会を申し込みましたが、なかなか会ってもらえず、河野広中(ひろなか)がかわりに出てきたそうです。河野ものちに衆議院議長をつとめる大物政治家ですが、このころは板垣退助の子分だったらしい。
□なお、蘇峰が19歳というのは明治15年(1882年)の夏かもしれません。ご存知のとおり、板垣退助は明治15年(1882年)の4月6日に岐阜で暴漢に襲われて負傷しています。「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという伝説のある事件ですね*4。
□もし満19歳の夏で明治15年(1882年)だとすれば、一面識もない怪しい青年に板垣を会わせるわけにはいかないでしょう。
□河野広中らが応対しようとします。そこで蘇峰は、「わが上京の目的は板垣伯との面会で、諸氏には用がないから、こっちから面会をお断り申す」と言い放ったとのこと。あまりの熱に動かされたのか、しつこさに負けたのか、板垣退助は最後には面会してくれたそうです。
[は]同志社の学生のころ、新島襄(にいじま じょう)の説教のあとで外国の飢饉を救うための募金をすることになった。蘇峰はひとり、日本の故郷の不幸を救うのが先だと発言した(○)
■蘇峰は同志社に学んだらしい。ある日、新島襄の説教のあとで、某国の飢饉を救うために募金が行なわれたそうです。蘇峰は、「今、わが故郷には西南戦争で不幸に陥ったものがたくさんいる。それを救わず、縁もゆかりもない外国人を救うのは前後緩急を誤るもので賛成できぬ」と発言したそうです。
□でも、あとで匿名で50銭を寄付したとのこと*3。
□蘇峰は新島襄のカミサンが嫌いだったそうです。和服に西洋婦人のように帽子をかぶったりするのが気に入らなかったようです。同志社の演説会で「夫人の風采(ふうさい)態度は新島先生の信用を篤(あつ)くするものではない」と攻撃したこともあったらしい。
□新島襄が亡くなると、未亡人に対して、「今後はあなたを先生同様に思うから何事も私にお頼り下され」と言ったとのこと。彼女が亡くなったときには墓に碑文を書いたそうです*3。
[に]蘇峰はせっかちで、人力車夫とか自動車の運転者をステッキで突っついて急がせた(○)
■徳富蘇峰は新聞記者と経営者を兼ねていたため、たいへんに多忙だったそうです。人力車夫や自動車の運転手をステッキで突っついて急がせたこともあったらしい。あとで謝ったとのこと*3。現代ならば、有名人のプチ不道徳事件として騒がれそうです。元NHKアナウンサーの松平定知(さだとも)氏とか漫才師の横山やすし氏などと同列に並べられちゃうのかな。
[ほ]「國民新聞」は徳富蘇峰が人生で初めて創刊した定期刊行物である(×)
■明治21年(1888年)に「國民之友」という月刊誌を創刊したそうです。10年ほど続いたとのこと。最初は平民主義を鼓吹したらしい。平民主義とはなにかな。「庶民の視点で見て考える」ということかな。「庶民に買ってもらいたい雑誌」なのかな。「所得の低い階層に媚びた意見を掲載する」ということなのかな。
□時あたかも第1回衆議院選挙が行なわれようとしていたころでした。「國民新聞」創刊のちょうど5ヶ月後、7月1日には選挙が行なわれます。11月29日には当選者が集合して国会が開かれました。
□なお、「國民新聞」は大正12年(1923年)の関東大震災ぐらいまでは大新聞の地位と影響力を保っていたようです。その後社業が傾き、激しい紆余曲折をへて現在の「東京新聞」の前身のひとつに数えられるとのこと。現在の紙面にかつての「國民新聞」の遺伝子が引き継がれているのかどうかはわかりません。
◆参考*1:HP「徳富蘇峰 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
◇*2HP「日比谷公園が開かれた日。焼き討ち事件はどのように起こったの? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200906/article_1.html
◇*3書籍「世界人物逸話大事典」初版679頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04-031900-1、角川書店
◇*4HP「板垣死すとも自由は死せず」は板垣自身が言った言葉ではないの?」
http://blog.q-q.jp/200904/article_7.html
◇*5HP「徳富蘆花の小説「不如帰」からの読み問題。「癇癪」はなんと読むの?」
http://blog.q-q.jp/200910/article_19.html

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