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●●●●●★歴史★● 問題:Wikipediaの「1月28日」の項によれば、1582年(天正(てんしょう)10年)の今日、九州のキリシタン大名である大友宗麟(そうりん)、有馬晴信(はるのぶ)、大村純忠(すみただ)がローマへの使節派遣を決定したそうです。 ■Wikipediaの天正遣欧少年使節の項によれば、1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日) 長崎港を出港したそうです。割りと準備期間が短いですね。西暦の1月28日に決定して旧暦の1月28日に実行に移す。妙に1月28日に縁のある出来事です。 ■キリシタン大名の3人がなにをたくらんでいたのかはよくわかりません。でも、使節派遣を提案したとされるヴァリニャーノ(ヴァリニャーニとも)の目的は記録に残されているらしい。その第一は「ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること」だそうです。第二には「日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てること」だそうです。なお、ヴァリニャーノと大友宗麟、有馬晴信の3人はすでに弊クイズにも登場したことのある人物です*3*4*5。 ■では本日は、天正遣欧少年使節にまつわる雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか? [い]少年たちは有馬晴信の作った学校の生徒だった [ろ]少年使節は約3年後にローマに到着した [は]ローマ教皇グレゴリウス13世は涙を流しながら少年使節を抱擁した [に]少年使節はグーテンベルグの活版印刷機を持ち帰り、日本語の出版物をも作った [ほ]のちに天草四郎らがたてこもる原城は、かつては有馬晴信の居城だった (答えはずっと下↓ スクロールして下さい) ●●●●●★歴史★● 正解:すべて正しい 説明: [い]少年たちは有馬晴信の作った学校の生徒だった(○) ■有馬晴信はキリシタン大名でした。天正(てんしょう)8年(1580年)、日野江城下(現長崎県南島原市にあった城の周辺)にセミナリヨと呼ばれる神学校を作ったそうです。セミナリヨではキリスト教の教理だけでなく、国語、ラテン語、文学、音楽、絵画、銅版術、刺繍なども教えたとのこと。少年たちも刺繍なんかしたのかな。 □有馬晴信は永禄(えいろく)10年(1567年)ごろに生まれたらしい。ということは、わずかに13歳で学校の創設者となったことになります。凄いな。Wikipediaによれば、その前にはキリシタンを迫害していたらしい。ヴァリニャーノに軍需物資を提供してもらい、敵をしりぞけたことに感謝して洗礼を受けたとあります。これも凄いな。早熟ですね。 □ただし、これには異なる説もあります。参考資料*6によれば、有馬晴信の祖父春純(はるずみ)、父義貞(よしさだ)ともにキリシタンであり、晴信は生まれながらのキリシタンだと記されています。どちらにせよ、晴信が若くして家督を継ぎ、洗礼を受け、学校を作ったのは間違いないらしい。 □なお、セミナリヨには千々石(ちぢわ)ミゲルという少年も通っていたらしい。大村純忠の名代として少年使節に加わった人です。大村純忠の甥で有馬晴信の従兄弟だそうです。 [ろ]少年使節は約3年後にローマに到着した(○) ■天正(てんしょう)10年(1582年)2月20日に長崎港を出発し、ローマに着いたのは1585年の冬だったらしい。あちらこちらと寄り道はしましたが、それにしても3年は長いですね。少年使節は青年使節になっていたかもしれません。 □なお、少年使節のメンバーは、前項の千々石ミゲルのほかに、大友宗麟の名代である伊東マンショ、のちにキリシタン弾圧を受け、拷問により殺される中浦ジュリアン、原マルティノらがいたそうです。 [は]ローマ教皇グレゴリウス13世は涙を流しながら少年使節を抱擁した(○) ■グレゴリウス13世は、3月1日に少年使節に謁見したとのこと。参考資料*7によれば、熱狂的なな歓迎を受け、涙を浮かべた教皇に抱擁されたとのこと。 □グレゴリオ13世は、グレゴリオ暦を施行した人物です。現在も我々が使っている暦ですね。在任期間は1572年(元亀(げんき)3年)〜1585年(天正(てんしょう)13年)4月10日だそうです。ローマ教皇は亡くなるまでつとめるそうですから、グレゴリウス13世が亡くなる40日前に面会したことになりますね*9。 □グレゴリオ暦は1582年(天正(てんしょう)10年)の10月に採用されたそうです。ということは、少年使節は旅の途中で歴史的な暦の変更に遭遇したことになるようです。とはいえそのころは無線電信もありませんから、ローマに近づいてようやく暦が新しくなったことを知ったのでしょうけれど。 [に]少年使節はグーテンベルグの活版印刷機を持ち帰り、日本語の出版物をも作った(○) ■グーテンベルグが活版印刷機を発明したのは1445年(文安(ぶんあん)2年)ごろだそうです。すでに140年ほどが過ぎて、技術も安定していたのかな。少年使節団の中には4人の正式な使節の他に、印刷機技術を習得し、印刷機とともに戻ってくる役割の少年も含まれていたらしい。 □もくろみどおり、印刷のハードウェアとソフトウェアの両方は日本にやってきました。天正(てんしょう)18年(1590年)といいますから、出発から8年もかかる長い旅だったようです。その後、グーテンベルグ社の印刷機を使って、日本語書物の活版印刷が初めて行なわれたそうです。 □なお、少年使節が戻ってきたときには、大友宗麟も大村純忠も亡くなっていました。ともに天正(てんしょう)15年(1587年)に没したらしい。それぞれ別の病気が原因とのこと。有馬晴信だけが生き延びていたようです。 [ほ]のちに天草四郎らがたてこもる原城は、かつては有馬晴信の居城だった(○) ■Wikipediaによれば原城は有馬貴純(たかずみ)という人物によって築城されたそうです。明応(めいおう)5年(1496年)前後のことらしい。 □参考資料*8によれば、天正(てんしょう)8年(1580年)ごろ、有馬晴信は原城を居城にしているそうです。 □有馬晴信を始め有馬家は、キリシタンたちと交易することで栄えたようです。秀吉がバテレン禁止令を出しても、キリシタンをかくまったりしたらしい。中央の意向を無視してそっとキリスト教を信仰する文化があったのかもしれません。 ◆参考*1:HP「天正遣欧少年使節 - Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80 ◇*2HP「有馬晴信 - Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1 ◇*3HP「江戸初期の疑獄事件。岡本大八事件は海の外からやってきたの?」(有馬晴信の一件) http://blog.q-q.jp/200901/article_4.html ◇*4HP「大友宗麟が家の命運まで賭けてしまった動物とは?」 http://blog.q-q.jp/200512/article_60.html ◇*5HP「信長の家臣にアフリカ系の人がいたってホント?」(ヴァリニャーノの一件) http://blog.q-q.jp/200803/article_29.html ◇*6書籍「世界人物逸話事典」初版55頁、朝倉治彦・三浦一郎編、ISBN4-04-031900-1、角川書店 ◇*7書籍「日本史のなかの世界史」初版94頁、北脇洋子著、ISBN-4-380-98227-0、三一書房 ◇*8HP「天草四郎関係年表」 http://www7b.biglobe.ne.jp/~amakusa/amakusashjirouinenpyou2.pdf ◇*9HP「今の暦を採用した教皇の誕生日。明治時代に日本が採用したときは大混乱したの?」 http://blog.q-q.jp/201001/article_7.html ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧 |
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