大津城の激戦の始まった日。城中にいた秀吉ゆかりの女性とは誰なの?

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★歴史★
問題:西暦1600年の今日、10月13日。和暦では慶長(けいちょう)5年9月7日。関ヶ原の戦いを8日後に控えた大津城で東軍と西軍の戦いが始まりました。立てこもるのは京極高次(きょうごく たかつぐ)という大名です。京極高次は、東軍の家康、西軍の石田三成の双方から勧誘され、一時は西軍に傾いたものの、最終的には東軍に加勢することを決め、毛利元康(もとやす)および立花宗茂(むねしげ)らの大軍勢を迎え撃ちました。関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦い、また真田昌幸(まさゆき)・信繁(のぶしげ、幸村)と徳川秀忠(ひでただ)の信州上田城の戦いと並び、関ヶ原と同時期の戦いとしては激戦で知られるものだそうです。
■大津城は現在の大津市浜大津あたりにあった城らしい。本丸は琵琶湖畔にあったとのこと。大砲の攻撃でかなり破壊されたようです。関ヶ原の戦いの後に廃城とされ、残った材料は彦根城、膳所(ぜぜ)城に転用されたようです。
■たいへん激しい戦いで、その音は連日京都にまで届き、多くの町人が見物に訪れたといわれます。武士にとっては生きるか死ぬかですが、町人はこういうときに気楽でいいですね。
■では本日のクイズです。大津城の中には、秀吉ゆかりの人物がいたそうです。その人は、秀吉がたいへん大事にしていた女性とのこと。次の誰でしょうか?
[い]おね(秀吉の正室)
[ろ]淀殿(秀頼の母、秀吉の側室)
[は]松の丸殿(秀吉の側室)
[に]三の丸殿(秀吉の側室)
[ほ]加賀殿(秀吉の側室)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]松の丸殿(秀吉の側室)
説明:松の丸殿は、秀吉の側室であり、京極高次の姉にあたる人だそうです。戸籍上の名前は京極竜子というらしい。
■西暦1598年4月20日。和暦では慶長(けいちょう)3年3月15日に醍醐の花見が京都の醍醐寺で開かれます。秀吉が主催し、諸大名、おもな部下など1300人を従えて盛大に催された花見だそうです。この花見では、輿(こし)の順では選択肢のいろは順に5人が乗り入れたらしい。そのあとに続いて前田利家(としいえ)の正室であるまつが続いたそうです。
■杯をうける順番もふつうは輿の順どおりになるらしい。おねが一番でした。ところが秀吉は2番目には松の丸殿に杯を渡そうとしたらしい。「淀殿が横槍をいれた」と参考資料*2に記されています。Wikipediaによれば、この争いはまつがとりなして丸くおさめたそうです。結局、どちらが先に杯を受けたのかな。
■醍醐の花見から5ヶ月後、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉は亡くなります。晩年の秀吉にとっていちばん大切な女性たちはこの5人だったようです。このうち、淀殿は秀頼を産んで以来の傲慢ぶりが嫌われ、やや孤立気味だったともいわれます。秀吉の子をもうけられなかったおねと松の丸殿は徐々に接近していくらしい。おねはご存知のとおり家康方だったといわれます。京極高次が東軍帰順を決めたのも、淀殿に遠くおねに近い姉の意見が効いたのかな。
■大津城の戦いでは天守閣で砲弾が炸裂したりしたらしい。松の丸殿の侍女二人が即死し、松の丸殿自身も気絶します。関ヶ原の戦いのその日、慶長5年9月15日(1600年10月21日)まで戦いは続きます。城内の京極勢は3000人ほど、攻め寄せる毛利・立花勢は1万5000人ほど。最後は京極高次が降伏し、大津城は開城することになります。京極高次は高野山に出家することになりました。
■関ヶ原の戦いはご承知のとおり1日で終わり、大津にいた毛利・立花軍は戦場に駆けつけることができませんでした。徳川家康は大津城で血を流しながら1万5000人の敵精鋭部隊を引きつけ続けた京極高次の功績を高く評価し、戦後に若狭9万2000石の所領を与えたそうです。
◆参考*1:HP「大津城の戦い - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
◇*2書籍「歴史のその後」初版197~199頁、担当著者楠戸義昭、ISBN978-4-404-03480-9、新人物往来社

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