大茶人古田織部の命日。大坂夏の陣で城を枕に討ち死にしたの?

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★歴史★
問題:慶長20年/元和元年(1615年)の今日、7月6日。大茶人にして戦国大名でもある古田重然(ふるた しげなり)が亡くなりました。
■「重然」では知名度が低いかもしれません。でも、茶人としての名前、古田織部(おりべ)といえば、茶道や骨董品に関心があるかたなら、間違いなく耳にしたことのある名前ですね。千利休がひとつの頂点をつくりだした茶道を継承した人物です。しかも利休の真似に終わらず、織部好みと呼ばれる文化的な流行を作り出した仕掛け人でもあります。
■生まれたのは天文(てんぶん)13年(1544年)だそうです。信長より10年、秀吉より8年、家康より2年あとに生まれた人ですね。お父さんは美濃国の山口城主の弟さんで、茶人だったそうです。山口城は、岐阜県岐阜市と関が原市の間にある本巣(もとす)市あたりにあったらしい。単なる偶然でしょうけど、現岐阜県知事も古田姓のかただそうです。
■古田重然は、武将としてはまず信長に仕えたようです。天正10年(1582年)の本能寺の変以降は秀吉に仕えます。天正13年(1585年)に秀吉が関白に任ぜられたとき、山城国西岡に3万5000石を与えられたそうです。小さいながらも大名ですね。秀吉に従い、九州征伐、小田原征伐、朝鮮征伐などに参加しています。
■では、美濃陶器の織部焼(おりべやき)、茶道の織部流創始者の394年目の命日にちなみ、古田重然/織部にかんする雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか?
[い]織部焼は、古田織部が自ら土をひねり、模様を描き、窯で焼き上げたものが発展していったものだ
[ろ]残念ながら古田織部の作らせた茶室はひとつも残されていない
[は]関が原の戦いでは西軍についた
[に]利休が秀吉の勘気をこうむったとき、他の弟子たちは秀吉を恐れて動かなかった。古田織部と細川幽斎(ゆうさい)だけは師匠を見送ったといわれる
[ほ]72歳の古田織部は大坂夏の陣で見事に討ち死にした
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:全部間違い
説明:[い]織部焼は、古田織部が自ら土をひねり、模様を描き、窯で焼き上げたものが発展していったものだ(×)
■大名茶人と呼ばれる古田織部が、職人のような現場仕事を実際にやっていたら面白いですね。落語「蕎麦(そば)の殿様」みたいに傍(はた)迷惑になるかもしれませんけど。
□でも、残念ながら、織部焼とのかかわりを示す資料はあまり残されていないようです。「職人・陶工を多数抱え、彼らに創作活動をさせた織部焼の創始者」と一般にはいわれているらしい。でも確実な証拠はない。不思議なことですね。
[ろ]残念ながら古田織部の作らせた茶室はひとつも残されていない(×)
■幸いなことに、古田織部が作らせた燕庵(えんなん)と呼ばれる茶室が残されているそうです。現在の藪内(やぶのうち)流の初代藪内剣仲(けんちゅう)という人物が古田織部から託されたものらしい。
□京都市の下京区に健在とのこと。東本願寺と西本願寺のあいだに位置しています。中学・高校生は、事前の申し込みがあれば見学可能だそうです。国の重要文化財とのこと*3。
[は]関が原の戦いでは西軍についた(×)
■秀吉の恩顧を得た古田重然ですが、石田三成(みつなり)には恩を感じていなかったのでしょうか。古田織部として茶道の世界での人脈が広く、朝廷・貴族とのつながりが深かったこともあり、一般の戦国武将とは異なる行動基準を持っていたのかもしれません。理由はよくわかりませんが、関が原の戦いでは東軍、徳川家康側について戦っています。
[に]利休が秀吉の勘気をこうむったとき、他の弟子たちは秀吉を恐れて動かなかった。古田織部と細川幽斎(ゆうさい)だけは師匠を見送ったといわれる(×)
■正しくは、「…古田織部と細川忠興(ただおき)が…」だそうです。古田織部も細川忠興も、利休七哲(しちてつ)と呼ばれた七人の高弟に含まれています。他には高山右近(うこん)とか蒲生氏郷なども七哲のメンバーだったらしい。
□細川忠興は、大名にして文化人だった細川幽斎(ゆうさい)の息子さんです。奥さんは明智光秀の娘さんの玉子(たまこ)さん。通称細川ガラシャ夫人です。古田織部も細川忠興も秀吉が怖かったでしょうに。恐怖に打ち勝ってきちんと筋を通したようです。
□なお、古田織部自身の茶道の弟子としては、小堀遠州(こぼり えんしゅう)、徳川秀忠(ひでただ、2代目将軍)らがいたとのこと。茶道の本として「織部百ヶ条」を残しているそうです。
[ほ]72歳の古田織部は大坂夏の陣で見事に討ち死にした(×)
■古田織部の死因は自殺です。ただし、自ら選んで自殺したわけではなく、徳川家康に切腹を命じられたようです。理由は、大坂夏の陣での戦いの際に、古田織部の家臣が京都に火を放ち、混乱に乗じて家康を襲おうとしたこと。また、敵方の大将豊臣秀頼(ひでより)の息子国松を匿(かくま)ったという嫌疑をかけられたことらしい。
□師匠の千利休は秀吉に切腹を命じられ、自分もまた家康に切腹を命じられました。運命は皮肉だなと思ったのでしょうか。かけられた容疑については一言の釈明、申し開きもしなかったそうです。
◆参考*1:HP「古田重然 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
◇*2HP「きょうと修学旅行ナビ > 京都を体験 > 茶道体験 - 藪内燕庵」
http://kyotoshugakuryoko.jp/experience/detail.php?nid=245
◇*3HP「関ヶ原の戦い - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

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この記事へのコメント

2014年07月24日 05:58
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