|
●●●●●★歴史★● 問題:大正3年(1914年)の今日、7月23日。オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に対して最後通牒をつきつけたそうです。10項目にわたる要求だったらしい。イギリスの外務大臣エドワード・グレイという人物は、「今までで国の状況を変更する最も恐ろしい文書」と評したそうです。それほど強い要求が含まれていたということでしょうか。オーストリア・ハンガリー帝国は、結局、セルビア王国と国交断絶し、宣戦布告し、第一次世界大戦が始まります。 ■これに先立つ大正3年(1914年)6月28日。オーストリア・ハンガリー帝国の継承者、フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領だったサラエボを視察中にセルビア人青年に暗殺されました。暗殺に関与した人物が「武器はセルビア政府の支給品だった」と自白したらしい。オーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に最後通牒をつきつけたのは、そんな理由があったようです。 ■では、戦死者が約1000万人。行方不明者は約800万人といわれる第一次世界大戦の発端となった暗殺事件と最後通牒にかんする雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか? [い]サラエボ事件は綿密な計画にもとづいたものではなく、偶然見かけた人物を射殺したという妙な暗殺である [ろ]サラエボ事件の実行犯はその場でリンチにあって殺された [は]最後通牒には無理難題が並べられていたが、それでもセルビア王国はすべてを承諾した。それにもかかわらず、オーストリア・ハンガリー帝国は、セルビア王国に対して宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった [に]つきつけられた最後通牒には、わずか6時間以内に返答しろという厳しい条件がつけられていた [ほ]暗殺時に大公夫妻が乗車していたクルマはヒトラーが接収したがベルリン空襲で破壊され、いまは残されていない (答えはずっと下↓ スクロールして下さい) ●●●●●★歴史★● 正解:[い]が正しい 説明:[い]サラエボ事件は綿密な計画にもとづいたものではなく、偶然見かけた人物を射殺したという妙な暗殺である(○) ■サラエボというのは、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都だそうです。当時はオーストリアに占領されており、ボスニア人は面白くなかったらしい。とくにセルビア系の住民は反発していたようです。不穏な空気の漂(ただよ)うなかに、フェルディナント大公夫妻はサラエボを訪問したらしい。 □暗殺犯たちは、セルビア軍将校を中心とした黒手組という秘密組織から拳銃と爆弾を受け取ったとされています。でも、セルビア政府は、その直前にバルカン戦争に勝利を収めたばかりです。強大なオーストリア・ハンガリー帝国を刺激しないよう、テロを防ごうと努力していたらしい。黒手組の関与は濃厚だそうですが、セルビア政府の関与はなかったかもしれないとのこと。 □6月28日の午前中に大公を乗せた車を含む車列がサラエボ市内で暗殺犯に襲われます。爆弾を投げつけられたらしい。狙いはそれて、大公夫妻は無事でした。 □いったん市庁舎に到着した大公夫妻は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞うことにしたそうです。病院に向かう途中、ある交差点で道を間違え、車は方向転換をします。たまたまその交差点に面したレストランで、暗殺グループの一員が食事をしていたらしい。ふと見ると、自分たちが目標としていた暗殺の対象者、大公夫妻が、そこにいます。暗殺者はおもむろに席を立ち、大公夫妻の車に駆け寄ると、まずカミサンの腹めがけて一発発射し、さらに大公の首のあたりにもう一発発砲します。夫妻はボスニア総督官邸に送られましたが、2人とも死亡しました。 [ろ]サラエボ事件の実行犯はその場でリンチにあって殺された(△) ■爆弾を投げつけて失敗した人物は、毒を飲み、川に飛び込んだそうです。でも毒では死ねず、川から引きずりだされ、民衆から手ひどいリンチを受けたらしい。殺されたかどうかはわかりません。 □大公夫妻を殺した人物は、ガヴリロ・プリンツィプという青年だそうです。プリンツィプも毒を飲み、ピストルで自殺を図ります。でも毒は効かず、ピストルをもぎとられ、裁判にかけられることになりました。 □暗殺グループは、たいへん年若い連中だったようです。成人に達していた者が1人いて、この人物は死刑判決を受け絞首刑に処せられたらしい。残りは懲役刑を課せられたそうです。プリンツィプは、獄中で結核で病死したとのこと。 [は]最後通牒には無理難題が並べられていたが、それでもセルビア王国はすべてを承諾した。それにもかかわらず、オーストリア・ハンガリー帝国は、セルビア王国に対して宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった(×) ■10項目の中で、2つの項目については、セルビア王国政府が留保したらしい。こんな内容でした。 ---領土保全に反する破壊分子の運動の抑圧のために、帝国政府の一機関との協力を受け入れること。 ---セルビア領で見つけられる可能性のある、サラエヴォ事件の共犯者を法廷尋問するとともに、帝国政府の一機関をこの手続きに参加させること。 □法廷尋問に他国政府の機関が参加するのは違憲ですし、主権侵害でもあるので断りたかったらしい。他の8つの項目については全部認めたのですが、オーストリア・ハンガリー帝国としては、国交断絶とし、宣戦布告にいたったようです。最後通牒は、単にオーストリアがセルビアに侵入する論拠を作るための手段だったとWikipediaには書かれていました。 [に]つきつけられた最後通牒には、わずか6時間以内に返答しろという厳しい条件がつけられていた(×) ■23日につきつけられた最後通牒には、「7月25日の午後6時まで待つ」と書かれていたそうです。丸1日以上は余裕があったことになります。 [ほ]暗殺時に大公夫妻が乗車していたクルマはヒトラーが接収したがベルリン空襲で破壊され、いまは残されていない(×) ■Wikipediaのサラエボ事件の項には、フェルディナント大公夫妻が乗っていたクルマの写真が掲載されていました。オープンカーだったらしい。現在もウィーンの軍事博物館に保存展示されているとのこと。 ◆参考*1:HP「サラエボ事件 Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ◇*2HP「オーストリア最後通牒 Wikipedia」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%9C%80%E5%BE%8C%E9%80%9A%E7%89%92 ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧 |
| << 前記事(2009/07/22) | ブログのトップへ | 後記事(2009/07/23) >> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2009/07/22) | ブログのトップへ | 後記事(2009/07/23) >> |