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zoom RSS 日比谷公園が開かれた日。焼き討ち事件はどのように起こったの?

<<   作成日時 : 2009/06/01 07:40   >>

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★歴史★
問題:明治36年(1903年)の今日、6月1日。東京の日比谷公園が開園したそうです。日比谷公園は都心にあり、16万平方m以上の広さがあるとのこと。400m×400mの面積よりもさらに広いらしい。昔風に言えば5万坪ぐらいなのかな。
■Wikipediaによれば、佐賀鍋島藩や萩毛利藩などの上(かみ)屋敷があったそうです。上屋敷というのは、「江戸時代、上級武士、特に諸国の大名が江戸市中に設けて平常の住まいとした屋敷」とのこと。他に中屋敷・下屋敷などもあります。上屋敷は本邸で、他の屋敷は別邸なのでしょうか。
■明治時代初期は練兵場にしたらしい。のちに本田静六(せいろく)という人によって都市の公園として設計され、明治36年(1903年)の今日、開園したとのこと。「日本初のドイツ式洋風近代式公園」だそうです。
■本田静六氏は、日比谷公園だけでなく、福島県の鶴ヶ城公園、埼玉県の羊山(ひつじやま)公園、福岡県の大濠(おおほり)公園など、多数の公園を手がけたらしい。「公園の父」と呼ばれているとのこと。
■日比谷公園で思い出すのは、戦後生まれとしてはレストラン松本楼の火事ですね。松本楼は日比谷公園の真ん中あたりに位置しているらしい。昭和46(1971)年に放火されて全焼しました。2年後の9月25日に再建されます。記念して、毎年9月25日には10円チャリティーカレーの催しを続けています。平成20年(2008年)も行なわれたようです*2。
■日比谷公園で起きた歴史上の事件としては、明治時代に起こった「日比谷焼打(やきうち)事件」と呼ばれるものがあります。公園に集まった集会が暴動に発展したというものですが、それは次のうちのどれに近い事件でしょうか? 
[い]明治37年(1904年)、コレラの流行で亡くなった遺骸を火葬にすべしという通達が出され、魂を火あぶりにしろというのかと憤激した遺族が日比谷公園に集結し、内務省を襲撃した事件
[ろ]明治38年(1905年)、日露戦争の戦利・賠償があまりに少ないと憤激した大衆が交番や政府高官官邸、新聞社などを襲った事件
[は]明治39年(1906年)、不況で多数の失業者が食べるものをよこせと日比谷公園に集り、警官隊とのにらみあいから暴動に発展した事件
[に]明治42年(1909年)、韓国併合の方針が発表されたのに憤激した朝鮮人が日比谷公園に集結し、国会議事堂を襲った事件
[ほ]明治43年(1910年)、ハレー彗星の接近に怯(おび)えた民衆が日比谷公園にあつまり、警官隊と衝突して多数の死傷者を出した事件
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]明治38年(1905年)、日露戦争の戦利・賠償があまりに少ないと憤激した大衆が交番や政府高官官邸、新聞社などを襲った事件
説明:明治38年(1905年)9月5日。日露戦争後のポーツマス条約の講和条件に憤激した人々が東京日比谷公園に集まり、近辺の交番、新聞社、内務大臣官邸などを襲ったそうです。翌6日には戒厳令がひかれ、ようやく騒ぎはおさまります。騒動による死者は17人。負傷者は500人以上。検挙者は2000人以上だそうです。東京だけでなく、各地で講和反対の集会が開かれたようです。神戸や横浜では暴動もあったらしい。
■日露戦争では、日本は旅順を攻略し、バルチック艦隊を壊滅させるなど、はなばなしい戦果をあげました。ただし、ロシア本土に侵攻したわけではありません。戦場はどちらにとっても本土以外の地域でした。
■日本は個々の戦闘では勝利したものの、国の経済はかなり行き詰っていたようです。ロシア側も革命運動が激しくなっていたらしい。両国とも戦争継続は難しくなっていたといわれます。
■ポーツマス条約では、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したそうです。樺太の南半分もこの条約で日本のものになったとききます。
■でも、ロシアとしては負けたつもりはなかったのか、戦争を継続してもいいんだぜと脅しをかけたらしい。日本はとてもじゃないが金がなく、戦争どころではなかったので、賠償金は一銭もとらないで講和したようです。
■ところが大衆は怒りました。日清戦争のときには多額の賠償金を得たようです。日露戦争では、戦死者・戦病死者も多かったし、戦費調達のために増税もあり、厳しい生活を強いられてきました。勝ったのだから当然、前回よりも大きな、ずっと大きな賠償金を得たいと思っていました。ところが日本の全権代表小村寿太郎(こむら じゅたろう)は国民の期待を裏切った条件で手打ちをしてきました。
■マスコミの扇動もきいていたようです。たとえば、明治38年(1905年)9月1日付の朝日新聞には、「講和会議は主客転倒」、「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」、「小村許し難し」などと書かれたらしい。また、戦争中は多くのマスコミが戦争を支援する方向で記事を掲載していたらしい。
■キリスト教徒の内村鑑三(うちむら かんぞう)、大逆事件で殺された幸徳秋水(こうとく しゅうすい)らが当時の大新聞萬朝報(よろずちょうほう)を退社した理由も、最初は反戦だったのにのちに立場を変えたことが原因だったと聞きます。
■マスコミは商売です。利潤追求が本質です。より多くの利益があがるような商品、新聞雑誌記事やテレビラジオ番組を並べるのは自然なことです。われわれはそのことをよく知った上で連中と接するべきでしょうね。
■それはともかく、「さんざん辛抱させられたのにいいことは何もない」と欲求不満を募らせた人々が日比谷公園で集会を開いたらしい。そのあげくに、交番や大臣官邸や新聞社を襲ったようです。なお、襲われたのは國民新聞社という新聞社です。講和賛成の記事を掲げたために「御用新聞」と見られたようです。いま思えば、「國民新聞」は現実に即した報道をし、理にかなった意見を述べたがゆえに被害を受けたのかもしれません。この象徴的な事件以後、現在にいたるまで、マスコミは正義を選ばず、難を避ける道を選ぶようになった…かどうかはわかりませんが。
■小村寿太郎が新橋駅に降り立ったとき、首相の桂太郎(かつら たろう)と海相の山本権兵衛(やまもと ごんべえ)は小村を両脇を挟(はさ)むように歩いたともいわれます*4*5。爆弾・銃弾を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟だったようです。それほど険悪な状況だったのでしょう。
◆参考*1:HP「日比谷公園 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E5%85%AC%E5%9C%92
◇*2新聞「恒例の「10円カレー」 日比谷松本楼で25日=東京恒例の「10円カレー」 日比谷松本楼で25日=東京」080923読売新聞東京朝刊30頁
◇*3HP「日比谷焼打事件 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◇*4HP「自分の脳の重さを計れと遺言して亡くなった首相は誰なの?」
http://blog.q-q.jp/200903/article_34.html
◇*5HP「東郷平八郎の国葬の日。ロシア艦隊を沈めた大将はおしゃべりな人だったの?」
http://blog.q-q.jp/200806/article_10.html

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