「板垣死すとも自由は死せず」は板垣自身が言った言葉ではないの?

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★歴史★
問題:明治15(1882)年の今日、4月6日。夕方の6時半ごろ。岐阜の中教院という建物の入り口階段付近で、自由党党首板垣退助(いたがき たいすけ)が暴漢に襲われました。板垣退助は、6時ごろまで内藤魯一(ろいち)らと中教院にて演説会を開いていたらしい。帰途に着こうとしたところだったようです。内藤魯一は自由民権家であり、板垣退助の秘書もつとめていたとのこと。
■暴漢は小学校の教員で相原尚褧(あいはら なおぶみ、「ぶみ」は上に耿、下に衣)という人物だったとのこと。「将来の賊!」と叫びながら刃渡り30cmほどのサバイバルナイフ、失礼、短刀をふりかざし、左胸を刺したようです。板垣退助は柔術の心得があり、暴漢の腹部に当て身を食わせます。暴漢は一瞬はひるんだものの、再び短刀をふりかざしたらしい。板垣は暴漢の手を押さえてもみあいになったようです。
■内藤魯一が気づいて駆け寄り、暴漢を押さえ込みます。その場にいた者たちは、第二の襲撃者を警戒しつつ最寄の民家に避難します。通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣されて診察します。命に別状はないものの、左胸・右胸に各1箇所、右手に2箇所、左手に2箇所、左頬に1箇所。合計7箇所を負傷していたとのこと。
■この知らせはすぐに東京に伝わりました。東京には旧土佐藩の同志で自由民権運動でも共闘していた後藤象二郎(しょうじろう)らがいましたが、激怒し、すぐに岐阜に向かおうとします。第一報は「板垣は死んだ」という誤報として伝わったともいわれます。その後、「板垣は無事」という続報が届き、自由党総代として谷重喜(しげき)、板垣の弟子植木枝盛(えもり)らが岐阜に向かいました。
■「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が生まれた事件です。右翼にせよ左翼にせよ、思想らしきもので身を飾ったならず者たちは、言論よりも刃物や銃弾・爆弾に物を言わせる傾向があるようです。
■本日は岐阜事件の顛末についての雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか?
[い]報告を受けた明治天皇は勅使を派遣する。岐阜県令は刺されたのがそんな大物とは知らず慌てて見舞いを遣わすが、板垣側に拒否されている
[ろ]政府の指示で板垣を診察した愛知県病院長は森鴎外だった
[は]傷が癒えた板垣が大阪へと出発したのは半年後だった
[に]後に出獄した加害者は、被害者宅を訪ねて再び刺そうとしている
[ほ]「板垣死すとも自由は死せず」は板垣自身の言葉ではない
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]が正しい
説明:[い]報告を受けた明治天皇は勅使を派遣する。岐阜県令は刺されたのがそんな大物とは知らず慌てて見舞いを遣わすが、板垣側に拒否されている(○)
■板垣退助は土佐藩の上士(ジョウシ、身分が高く収入が多い侍)の出身だそうです。上士仲間の後藤象二郎とは幼ななじみだったとのこと。後藤象二郎は、龍馬の「船中八策(センチュウハッサク)」を藩主山内容堂(ようどう)に取りついだ人ですね。
□土佐藩では、坂本龍馬、中岡慎太郎(しんたろう)、武市瑞山(たけち ずいざん、通称半平太、はんぺいた)などの有能な人物が維新前に亡くなってしまいます。戊辰戦争では土佐藩でいちばん活躍したのが板垣退助だったらしい。明治新政府では土佐代表として出世しています。たとえば、明治2(1869)年に明治新政府の参与に就任しています。このとき一緒に参与になった人たちは、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允(たかよし)、佐賀の大隈重信だそうです。板垣退助がどれほど重用されていたかがわかりますね。その後、明治六年政変で征韓論を主張した西郷とともに下野しています。
□岐阜事件の翌日、板垣遭難の報が政府に入ります。閣議が中止になり、山県有朋(やまがた ありとも)は明治天皇に事件を上奏します。その場で勅使の派遣が決まったらしい。
□岐阜の自由党員の中には、今回の刺客は政府の差し金だろうと敵意をむきだしにし、勅使も拒絶するべきと主張した者がいたそうです。でも板垣は受け入れました。勅使は御手元金を下賜したそうです。お見舞いの金一封なのかな。
□岐阜県令(知事)は勅使来訪に驚き、慌てて見舞いを出そうとしたらしい。板垣側は事件直後には見て見ぬふりをしていたくせになんだとつむじを曲げたのか、県令の遣いの者は謝絶したようです。
[ろ]政府の指示で板垣を診察した愛知県病院長は森鴎外だった(×)
■正しくは、「内藤魯一の依頼で板垣を診察した愛知県病院長は後藤新平(しんぺい)だった」だそうです。事件の翌日に後藤新平が岐阜に到着します。板垣退助は、後藤を政府からの刺客と勘違いして拒絶したらしい。周囲に説得されてようやく診察を受けたようです。
□板垣退助は後藤新平の有能さを感じたようです。「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったとのこと。後藤新平はその後、医学界から政界に転じ、台湾総督、内務大臣、外務大臣、東京市長、関東大震災の復興院総裁などをつとめます。たしかに政治家として有能だったようです。
[は]傷が癒えた板垣が大阪へと出発したのは半年後だった(×)
■正しくは、「4月15日だった」だそうです。抗生物質のない時代です。負傷後10日も経っていない時期に移動が許可されたのですから、どうもあまり深手とはいえないようですね。板垣退助が亡くなったのは大正8(1919)年7月16日だそうです。事件後40年近く生き延びています。後遺症は大丈夫だったのかな。
[に]後に出獄した加害者は、被害者宅を訪ねて再び刺そうとしている(×)
■正しくは、「…、被害者宅をたずねて詫びた」だそうです。暴漢は事件のあった年の6月26日から岐阜重罪裁判所で裁判を受け、無期徒刑の判決を得ています。明治22(1889)年に大日本帝国憲法発布の恩赦で釈放されたとのこと。わずか4年ほどで釈放ですか。昔は無茶をやったんですね。
□釈放された後、板垣の元をたずねて謝罪しています。板垣は許しているとのこと。このとき、自由党員による入念なボディチェックが行なわれた…という話は伝わっていません。でもやっぱり調べたんでしょうね。
□改悛した暴漢氏は、北海道に渡って暮らすべく船に乗ったのですが、途中で行方不明になったとのこと。自殺説、事故説、また板垣襲撃計画の立案者らによる謀殺説などがあるそうです。
[ほ]「板垣死すとも自由は死せず」は板垣自身の言葉ではない(△)
■これは説が分かれています。そのとおりではないまでも、似た言葉は現場で板垣自身が叫んだとする説があります。たとえば自由党の「臨時報」では、「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」と叫んだとされています。政府の密偵の上申書には、「吾死スルトモ自由ハ死セン」と叫んだと書かれていたらしい。また、岐阜警察署警部長の上申書では、「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキトゾ」と叫んだというのですが。
□そもそも、このお話が大衆の前に最初に登場したのは、事件後5日たった4月11日の大阪朝日新聞の記事だそうです。「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだというのですが。
□報知新聞はそのあとで関係者に取材したらしい。その結果によれば、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉だそうです。内藤が板垣が叫んだ事にしたというのですが。
□Wikipediaの板垣退助の項によると、事件の直後、小室信介(こむろ しんすけ、案外堂)というジャーナリストが岐阜で行なった演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものだそうです。さまざまな説が入り乱れています。どれがホントだかさっぱりわかりませんので△にしました。
◆参考*1:HP「岐阜事件 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◇*2HP「板垣退助 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9

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