大久保彦左衛門は大名になる機会をみすみす逃したの?

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★歴史★
問題:西暦1639年の今日4月2日。和暦では寛永16年の2月29日。大久保彦左衛門(ひこざえもん)の通称で知られる大久保忠教(ただたか)が亡くなりました。満80歳を目前にしての往生でした。現代の日本人男性の平均寿命とピタリ一致していますね。
■家康、秀忠、家光の3代の将軍につかえ、天下のご意見番と呼ばれた…と講談や時代劇のほうではいわれているおじいさんです。一心太助(いっしん たすけ)という魚屋の青年とのコンビで悪い奴を退治したというのは連続テレビドラマかなにかだったでしょうか。
■大久保忠教には、「三河物語」という著作があります。家康に仕えた大久保忠教が、さまざまな戦さをどのように戦ったか。関が原、大坂冬の陣、夏の陣でのできごとなどを通じて、自分の子孫のために書き残した私家版の歴史書であり、武士としての教育書だったらしい。公開するつもりはなく、子供、孫など、血筋のものたちだけに読ませるつもりだったようです。でも写本がどんどん生まれてしまい、多くの赤の他人に読まれてしまったらしい。現代の我々もまた読むことができます。
■講談に登場する彦左衛門は、盥(たらい)に乗って江戸城に登城したりする変なおじいさんです。記憶は曖昧ですが、大名と旗本が乗り物のことで喧嘩になり、大名以外は駕籠に乗るべからずみたいな命令が出てしまうんですね。困った旗本たちに泣き付かれた大久保彦左衛門は、駕籠じゃなくて盥ならいいんじゃないかとばかりに、盥に乗って登城する。幕府の偉いさんたちが呆れて、旗本の駕籠を以前と同様に認めるとかいうお話だったと思いますが。違っていたら御免あれ。
■落語のほうでは、「将棋の殿様」というお話にでてくる頑固な家老が大久保彦左衛門をモデルにしているという説があるらしい。部下と将棋を指すときに、権力をかさにルールを無視し、好き勝手に駒を動かし、いつも勝っているパワハラな殿様がいます。頑固な家老だけは殿様の命令にさからい、ルールを守らせ、殿様を負かしてしまうというお話です。
■本日は、命日にちなみまして、実在の大久保忠教についての雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか?
[い]大久保忠教が生まれた年には桶狭間の合戦があり、今川義元(よしもと)が討ち取られている
[ろ]初陣はわずかに13歳のときだった
[は]大名になる機会があったのに、自ら断ったことがある
[に]江戸初期の武断派大久保対文治派本多の政争に敗れ、いったん知行を失うが、家康の直接の配下となって蘇った
[ほ]「三河物語」は、隠居後にグランパスエイトのホームタウンで書かれた
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[は]、[に]が正しい
説明:[い]大久保忠教が生まれた年には桶狭間の合戦があり、今川義元(よしもと)が討ち取られている(○)
■大久保忠教は、1560年の永禄3(1560)年に上和田村、現在の岡崎市上和田町に生まれたそうです。この年の和暦で5月19日。西暦では6月12日に桶狭間の戦いがあり、今川義元は織田軍の下っ端に首をとられてしまいます。
□大久保忠教がのちにつかえることになる家康は、当時は松平元康(もとやす)です。今川方にいましたが、桶狭間の敗戦のしらせを聞いていったんは岡崎にある松平家の菩提寺に入り、今川方の城主が駿河に逃げ帰ったことを知って岡崎城に入ったそうです。
[ろ]初陣はわずかに13歳のときだった(×)
■正しくは、「17歳のときだった」らしい。Wikipediaにはそのように書かれていました。ただし、数えかもしれません。
□遠江平定戦という作戦の中で、乾城(犬居城とも)攻めという戦いがあったらしい。長兄大久保忠世(ただよ)に従って初陣を飾り、敵の首級をあげたそうです。
[は]大名になる機会があったのに、自ら断ったことがある(○)
■次兄の大久保忠佐(ただすけ)は、関が原の戦いのころには駿河国沼津城主で2万石を拝領していたそうです。大名です。嫡男が早世してしまったため、弟の忠教を養子として家督を継がせようとしたらしい。ところが、忠教は断固として断ったそうです。2万石が「自分の武功で得たものでないから」という理由らしい。現代の町人には理解しがたいな。
□結局、忠佐は跡継ぎを残さないままに亡くなり、当時の約束どおり改易になってしまったらしい。お家は断絶、一族郎党は失業ですね。もったいないし、馬鹿馬鹿しいですね。
□大久保忠教が亡くなる直前に、3代将軍徳川家光から5000石の加増(かぞう、昇給)を申し渡されたそうです。でも、「余命のない自分には有りがたいけど不要」として断ったらしい。生き方として格好いいのかもしれませんが、周囲の者にとっては迷惑かな。
[に]江戸初期の武断派大久保対文治派本多の政争に敗れ、いったん知行を失うが、家康の直接の配下となって蘇った(○)
■江戸初期には、閣僚の中で大久保派と本多派の争いがあったらしい。大久保派は合戦に実績を残してきた人たちであり、本多派は実務官僚として江戸の町づくりや幕府の体制づくりに貢献してきた人たちだそうです。
□慶長17(1612)年の岡本大八(だいはち)事件で本多派は危ういかと見えましたが、翌年の大久保長安(ながやす)事件で、小田原城主だった大久保忠隣(ただちか、忠世の息子)が失脚します*4*5。大久保忠教も連座し、改易されてしまいます。でも、大久保忠教だけは、駿府にいた最晩年の家康に召しだされ、1000石を拝領することになったらしい。満53歳前後のはずです。神君家康に対しても、言いたいことは言ってしまう頑固な人だったそうですが、その奇人ぶりが愛されたのでしょうか。
[ほ]「三河物語」は、隠居後にグランパスエイトのホームタウンで書かれた(×)
■正しくは、「アントラーズのホームで書かれた」だそうです。寛永12(1635)年、満75歳ぐらいのときに、常陸国鹿嶋郡に休息所を賜ったとのこと。「三河物語」はここで書かれたといわれます。
□「三河物語」の内容は史実と異なる記載もあるらしい。事実を記述するというよりも、一種の創作なのかもしれません。ただし、文章は独特のかなまじり文で、当時の言葉づかいがそのまま伝わってくるようです。歴史の資料というよりも、国語の資料として有用と見られているそうです。
◆参考*1:HP「大久保忠教 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E6%95%99
◇*2HP「三河物語 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A9%E8%AA%9E
◇*3HP「大久保彦左衛門忠教(ただたか)の年表」
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m139.html
◇*4HP「出世頭だったのに死後は息子7人が切腹させられた数奇な運命の男とは?」
http://blog.q-q.jp/200612/article_67.html
◇*5HP「江戸初期の疑獄事件。岡本大八事件は海の外からやってきたの?」
http://blog.q-q.jp/200901/article_4.html

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