川島芳子が銃殺された日。男装の麗人は替え玉をたてて逃げたの?

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★歴史★
問題:昭和22(1947)年の今日、3月25日。川島芳子(かわしま よしこ)、本名愛新覚羅顕シ(あいしんかくら けんし)(シは王ヘンに子)が銃殺刑に処されました。波乱に富んだ40年余りの人生でした。日本軍に協力して満州国を建国するためにさまざまな活動をしました。銃殺刑を実行した中国国民党軍にとっては、国家に対する反逆に見えたらしい。
■川島芳子は、明治40(1907)年5月24日、清朝の皇族一家に生まれました。明治44(1911)年に辛亥革命が勃発。明治45(1912)年に宣統帝(せんとうてい)こと愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)が退位し、清朝が終焉を迎えます。
■川島芳子は、大正4(1915)年、8歳ごろでしょうか、川島浪速(かわしま なにわ)という日本人の養女となるために来日しています。川島浪速は、川島芳子の実父愛新覚羅善耆(あいしんかくら ぜんき)と親しい人物です。20世紀初頭に、日本軍の占領地域で警察機構を整備したらしい。その手腕を清朝に買われ、中国初の近代的警察官養成学校である北京警務学堂の総監督に就任しています。このころ、愛新覚羅善耆と交流をむすんだようです。
■日本に来た川島芳子は、単にお嬢様としておとなしく成長し、結婚しておだやかに暮らすという人でありませんでした。清朝の復活を願い、自分なりに一所懸命に生きたようです。
■本日は、悲劇の皇女の命日にちなみ、敗戦まで世間の注目を集め続けた川島芳子についての雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか?
[い]女学校時代には当時珍しかった自転車に乗って通学していた
[ろ]22歳で自殺未遂事件を起こして断髪し、男装となったところ、ファンが自宅を訪問する騒ぎになった
[は]東洋のマタ・ハリ、東洋のジャンヌ・ダルクと呼ばれたことがある
[に]戦後、漢奸(カンカン)として訴追され、日本国籍を取得していなかったために死刑判決を受けた
[ほ]銃殺されたのは替え玉で実は本人は生き延びていたという説がある
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]と[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]女学校時代には当時珍しかった自転車に乗って通学していた(×)
■正しくは、「馬に乗って通学していた」だそうです。川島芳子が日本に来たときはまだ小学生です。東京の赤羽にあった川島浪速宅から豊島師範付属小学校に通っていたとのこと。卒業後は跡見(あとみ)女学校に進学します。
□その後、養父川島浪速の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住します。川島浪速の父親が松本藩士だったようです。松本高等女学校、現松本蟻ヶ崎高等学校に通学したそうです。川島芳子は松本高女まで馬で通ったとのこと。校則はうるさくなかったのかな。それとも外国の王女様だから特別扱いかな。
[ろ]22歳で自殺未遂事件を起こして断髪し、男装となったところ、ファンが自宅を訪問する騒ぎになった(×)
■正しくは、「17歳で自殺未遂事件を起こし…」だそうです。
□大正11(1922)年、15歳のころに父愛新覚羅善耆が亡くなります。葬儀のために長期欠席したところ、復学が認められなかったようです。中退しました。
□17歳で自殺未遂事件を起こしたらしい。その結果断髪したのか、自殺未遂と断髪は別々の出来事なのか。はっきりとはわかりません。ともかく思春期の女の子らしい思い切った行動をとったらしい。
□自殺未遂や断髪の原因としては失恋説があります。もうひとつ、養父に関係を迫られたとするもの凄い説もあります。でも後者の説は、素人にはちょっと考えにくい。日本人に酷い目にあわされたのなら、川島芳子嬢はその後日本軍に協力したりはしないのではないかな。
□ともあれ、川島芳子嬢は短髪で男装となり、見かけ上は女を捨てました。決意文書を書いて新聞に掲載されたらしい。真似をして断髪する女性があらわれ、ファンが押しかけてきたりとちょっとした騒ぎになったそうです。Wikipediaには、女を捨てた川島女史の写真が掲載されていました。宝塚の男役みたいです。そういえば宝塚少女歌劇は大正7(1918)年に東京初公演だそうです。影響があったのかな。
[は]東洋のマタ・ハリ、東洋のジャンヌ・ダルクと呼ばれたことがある(○)
■昭和2(1927)年に蒙古族の将軍の息子と結婚します。でも2年ほどで離婚します。上海に渡った川島芳子は、昭和5(1930)年10月に駐在武官として赴任してきた田中隆吉(りゅうきち)少佐と知り合います。きわめて親密な仲になったらしい。スパイの道に引き入れられたそうです。「東洋のマタ・ハリ」の誕生かな。
□昭和6(1931)年の満州事変の際には、愛新覚羅溥儀のカミサンを天津から旅順に護送する任務を行なっているとのこと。満州国が成立すると、満州国女官長という役職に任命されています。
□昭和8(1933)年には、関東軍の支援で安国軍(アンコクグン)が創設され、川島芳子は総司令に就任したらしい。熱河(ネッカ)作戦に従軍したとのこと。実際にどの程度の活躍をしたのかはわかっていません。でも、日本や満州国のマスコミで報道され、「東洋のジャンヌ・ダルク」などと持ち上げられたらしい。いわゆる広告塔だったのかな。
□このころ、芳子をモデルにした小説「男装の麗人」が村松梢風(むらまつ しょうふう)という作家により発表されたらしい。川島芳子は「日本軍に協力する清朝王女」としてますます世間の注目を浴びたようです。
[に]戦後、漢奸(カンカン)として訴追され、日本国籍を取得していなかったために死刑判決を受けた(○)
■「漢奸」の「奸」という漢字は、漢和辞書「字通」によれば、「カン、おかす、みだす、たわける」という字音・字訓があるそうです。「漢奸」は「漢民族をおかす」という意味かな。
□日本語でいえば売国奴です。ただし、川島芳子嬢は日本人の養女ですから、売国奴というのはちょっと変です。たとえば李香蘭(リコウラン)として活躍し、中国人だと思われていた歌手・女優の山口淑子(やまぐち よしこ)も漢奸として訴追されたらしい。日本人だと判明し、国外退去処分で済んでいます。
□川島芳子嬢は、国籍は変えていなかったらしい。そのため、売国奴として処刑されたともいわれます。別の説では、中国では血筋で判断するので、書類上で日本国籍になっていたとしても処刑はまぬがれえなかったともいわれます。でも、よく考えると、川島芳子は清朝幹部の娘であり、満州民族です。漢民族ではありません。漢奸の汚名はあまり「ぴったんこ」ではありませんね。
[ほ]銃殺されたのは替え玉で実は本人は生き延びていたという説がある(○)
■ふつうは公開で行われる漢奸の処刑が川島芳子の場合だけは早朝非公開で行われたらしい。遺体は公開されましたが、銃弾が顔面を貫通しており判別不明だったとのこと。このへんから替え玉説が生まれたようです。
□「末期がんの女性の家族に金の延べ棒10本を渡した」などという話がまことしやかに語られたらしい。GHQも調査したようです。真相究明には至らなかったとのこと。
□川島芳子は、療養のため、昭和14(1939)年ごろには福岡に滞在しています。博多ラーメンが好物であったため、替え玉説が流れました。なんてね。
◆参考*1:HP「川島芳子 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90

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この記事へのコメント

ねこのひげ
2009年03月25日 19:15
うろ覚えで申し訳ないですけど・・・。
去年だったかに、第二次大戦後、私のお母さんが川島芳子と暮らしていて、そのとき貰ったとかいう掛け軸か何かを持っていたおばあさんのニュースがありましたね。

お母さんが、○○おばあさんと呼んでいた人が、死ぬまぎわに川島芳子と名乗ってから死んだとか・・・・日本人と付き合っていたのがわかると殺されるというので長い間、隠していたそうです。

本物だったのかどうか?その後の情報がはいてきませんが・・・。

生きていたとしたら、小説になりそうでミステリーですよね。
ねこのひげ様<素町人
2009年03月25日 22:46
コメントをありがとうございます。

死ぬ前に「自分は川島芳子」と名乗ったのは、ホントかもしれませんね。いまわのきわに嘘をつくのは、かなり人を喰った人でないとできないかも。
(^^;)

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