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zoom RSS 奇想天外な財政再建策。薩摩藩を救った男の評判は最低なの?

<<   作成日時 : 2009/03/24 06:45   >>

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★歴史★
問題:西暦1776年の今日、3月24日。和暦では安永(アンエイ)5年2月5日。薩摩藩の台所をあずかり、明治維新を陰で支えた人物が誕生しました。調所広郷(ずしょ ひろさと)という諱(いみな、本名)です。通称は笑左衛門(しょうざえもん)など。地元鹿児島の人や歴史のお好きなかたならつとにご存知の武士です。でも一般の知名度はあまり高くはありません。昨年の大河ドラマ「篤姫」に登場したそうですから、以前よりは有名になったかな。
■笑左衛門は、身分も所得も低い武士川崎主右衛門基明(もとあき)の次男として生まれたらしい。天明8(1788)年に、これまた下級武士である調所清悦(せいえつ)の養子となっています。調所家は茶道職の家柄だったらしい。優雅な家系に見えますが、実際は10石を拝領する茶坊主のようです。頭はチョンマゲではなく丸坊主にし、殿様の雑用などをこなすのが役目らしい。実のお姉さんは弟を不憫に思ったのか、「お前は茶坊主で終わる人間ではない」といってときどき元結(もっとい、チョンマゲを結う紐)を送ったそうです。いつかその元結で髪を結う日が来ると励ましたらしい。
■お姉さんが信じていたように、笑左衛門は有能だったらしい。そもそも茶坊主の記録などはあまり記されないものらしいのですが、笑左衛門は例外です。夜遅くまで勉強をしていたとか、町人・農民から情報を集めること、手紙を書くのが得意だとかいった話が残されているらしい。
■お姉さんが信じていたように、笑左衛門がついにチョンマゲを結う日がやってきます。文化9 (1812)年の7月に、茶道頭から小納戸(こなんど)という役職に栄転したらしい。髪を伸ばしていい立場のようです。元結を使うまでに20年以上の歳月が流れていました。笑左衛門はすでにアラフォーです。それでも、「古来稀な出世」として驚かれたようです。
■これを皮切りに、文化12(1815)年には小納戸頭取・御用御取次見習→その後使番(つかいばん)→文政5(1822)年には町奉行→文政7(1824)年には御側用人役・両御隠居様御続料掛(りょうごいんきょさまおつづけりょうがかり)を命ぜられます。最後の「両御隠居様」というのは、8代目と9代目の藩主島津重豪(しげひで)と斉宣(なりのぶ)だそうです。当時の藩主は10代目の斉興(なりおき)だったらしい。重豪と斉宣の世話をする係をおおせつかったわけですが、実際にはそのための費用捻出が大きな仕事とのこと。世情に通じた笑左衛門は、琉球経由の中国製品密輸入で巧みに稼ぎ、任務をまっとうして褒められています。ちなみに、幕府も薩摩藩の窮状を知っており、抜け荷に対しても目をつぶっていたようです。もちろん藩としても密貿易は黙認なのでしょう。それとも奨励していたのかな。
■そんなこんなで、元藩主前藩主現藩主のお覚えめでたい笑左衛門は、文政11(1828)年に薩摩藩の財政再建を命じられます。もともと赤字体質だったのに元藩主重豪の時代にふくれあがった借金の総額は500万両とのこと。利子だけで毎年60万両ほど増える勘定だそうです。当時の薩摩藩の年間収入は10万両〜20万両ぐらい。どうみても破産状態です。笑左衛門は「財政については無知なので」と何度も逃げようとしますが、重豪が刀で脅して承諾させたらしい。このときの命令の中身は次のようなものだったとのこと。
---天保2(1831)年からの10年間で50万両の積立金をつくれ
---平時ならびに非常時の手当をなるべく貯えよ
---古い借金の証文を取り返せ
■素人が考えても目茶苦茶な命令です。命じられた笑左衛門も、目茶苦茶をやらざるをえなかったようです。では、笑左衛門が実際に実行した目茶苦茶な財政再建策のうち、実際にあったのは次のどれでしょぅか?
[い]琉球との密貿易
[ろ]黒砂糖栽培農家の搾取
[は]アヘンの密造
[に]贋金の鋳造
[ほ]500万両の借金の踏み倒し
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[ろ]、[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]琉球との密貿易(○)
■これは、すでに両御隠居様御続料掛をつとめていたころからの金儲けのやりかたです。清朝の絹製品や陶磁器などを琉球を経由して密輸入し、国内で高く売って儲けるらしい。また琉球の特産品である朱粉(しゅこ?、朱墨などの原料)や鬱金(うこん、ターメリック、薬草として利用)なども密輸入していたようです。
□笑左衛門は商才があったらしい。最初は笑左衛門に経済や商いのイロハを教えていた豪商のひとりが、しばらくするととてもかなわないと嘆息するほど、商売が上達したようです。密輸入した商品についても、市場で値が崩れないように、細心の注意を払い、最大の利益をあげるようにつとめていたそうです。
[ろ]黒砂糖栽培農家の搾取(○)
■奄美大島は、当時薩摩藩の直轄領だったとのこと。元禄のころから砂糖きび栽培が始まっていました。薩摩藩は以前から黒砂糖をつくらせ、年貢として納めさせ、利益をあげてきました。笑左衛門は相場の維持のため、闇の販路を断つべく、過酷ともいえる商品管理をしたらしい。年貢以外の黒砂糖商品もすべて日用品と交換して薩摩藩が入手したとのこと。子供が砂糖きびをなめただけで処罰されたというお話も残されています。
[は]アヘンの密造(×)
■笑左衛門が財政再建計画を進めているさなか、天保11(1840)年にイギリスは阿片戦争を起こしています。もし日本がイギリスと貿易をしていたら、おなじ目にあっていたのかもしれません。幸いに鎖国していましたので、アヘンの中毒者もほぼゼロだったはずです。ゼロからの市場開拓はなかなか大変でしょう。おそらく、阿片の密売はすぐには商売にならなかったと思われます。笑左衛門がいくら奇抜なアイデアの持ち主とはいえ、アヘンの密造、密輸入などには手をつけていないと推測されます。
[に]贋金の鋳造(○)
■NHKの大河ドラマ「篤姫」でも、平幹二郎(ひら みきじろう)演ずる笑左衛門が贋金の鋳造を篤姫に告白する場面があったらしい。このときは、銀貨だったようです。他の話では、天保銭という当時最新の硬貨の贋金を作っていたともいわれます*3。
[ほ]500万両の借金の踏み倒し(○)
■天保6年(1835)年から、薩摩藩は金を借りている商人達に「古い証文を確認して書き改める。証文を持参しなさい」と命じたそうです。証文を受け取ると、通帳形式に書き改める作業を行う一方で、たいへん図々しい提案をします。「薩摩藩の借金は以後すべて一律に250年の年払い・無利子で返済していくことにする」。提案というよりは、一方的な宣言なのかな。
□笑左衛門は、商人たちの目の前で受け取った証文を燃やしてしまったらしい。「不満があるなら、私を殺すなりしてくれ」と開き直ったそうです。京・大坂の商人たちは激怒しますが、老人を1人殺してもなんの得にもなりません。しょうがないので、大坂の町奉行に訴えたようです。町奉行は笑左衛門の相談役と目される商人を逮捕し、追及します。でも薩摩藩による組織的な犯行は立証できなかったようです。この商人は大坂を追放されるぐらいで済んでいます。どうも島津家が裏から手を回したらしい。
□500万両の大借金は、その後、35年間にわたり、毎年2万両ずつ返済されたとのこと。明治維新後に新政府の命令でこの契約も破棄され、商人たちは残った430万両の債権を回収することはできませんでした。
□こうした強引なやりかたにより、薩摩藩は500万両の借金生活から250万両の内部留保を確保するまでに至ったそうです。このフトコロの暖かさがなければ、11代藩主島津斉彬(なりあきら)も12代藩主忠義(ただよし)も身動きがとれず、戊辰戦争など軍資金不足でとても戦えませんでした。
□笑左衛門は、嘉永2(1849)年に73歳で江戸で血を吐いて亡くなります。幕閣に密貿易を追及されたための服毒自殺という説も強いらしい。密貿易の情報を老中阿部正弘(まさひろ)に流したのは斉彬という噂が強いようです。笑左衛門は10代藩主斉興のお気に入りです。当時の薩摩藩は、11代藩主を決めるにあたって島津久光(ひさみつ)を押す斉興派と斉彬派が争っていたらしい。その政争に巻き込まれたという見方が強いようです。
□調所笑左衛門は、西郷隆盛や大久保利通など、幕末・維新の大立者たちに深い恨みを買っていたといわれます。彼らは斉彬派であり、斉興の弾圧によって痛い目にあっているためとのこと。おかげで笑左衛門は不当に低く評価されてきたともいわれます。
□藩主斉興やその息子の久光を表立って非難することはできません。斉興派の家老調所笑左衛門が矢面に立たされたともいわれます。笑左衛門はその点では不運だったのかな。でも、笑左衛門の残した資産がなければ西郷は何もできなかったはず。西郷がいなければ維新は成らなかったかもしれませんが、同様に調所笑左衛門がいなければ、維新は成立しなかった…と、素人は勘ぐりたくなります。
◆参考*1:HP「調所広郷 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E6%89%80%E5%BA%83%E9%83%B7
◇*2HP「しりとり歴史人物館」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/siritori/zusho.html
◇*3HP「藩ぐるみで贋金づくりに励んだのは?」
http://blog.q-q.jp/200511/article_61.html

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