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zoom RSS 「改革!」と叫んだ松平定信。聖人過ぎて据え膳を食わなかったの?

<<   作成日時 : 2009/01/15 06:48   >>

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★歴史★
問題:西暦1759年の今日、1月15日。和暦では宝暦8年12月27日。寛政の改革を推進した老中首座・陸奥白河藩主、松平定信(まつだいら さだのぶ)が生まれています。
■松平定信は徳川吉宗(よしむね)の孫にあたります。御三卿(ごさんきょう)田安徳川家初代当主田安宗武(たやす むねたけ)の七男として生まれました。幼名は賢丸(かしこまる?)。名前マケせず、幼少期から聡明さで知られていたらしい。兄が凡庸で病弱だったので、いずれは田安家を継ぎ、また将軍の後継者にとも期待されていたようです。
■でも、田沼意次(たぬま おきつぐ)の政治を批判していたため、田沼派からはうとまれていたようです。田沼の権勢を恐れた一橋家当主一橋治斉(ひとつばし はるなり)によって安永3(1774)年に陸奥国白河藩主松平定邦(さだくに)の養子とされてしまいます。現福島県白河市周辺を領地とする藩です。ちなみに一橋治斉は11代将軍家斉(いえなり)のお父さんです。
■白河藩の当主の座をついだ定信は、1780年代の天明の大飢饉を上手に乗り越え、白河藩からは一人の餓死者も出さなかったといわれます。危機管理の能力を買われたのか、天明7(1787)年に徳川御三家の推挙を受け、幼い11代将軍家斉のために老中首座・将軍補佐となります。政治の表舞台から田沼派を一掃します。祖父である徳川吉宗の享保の改革を手本として、寛政の改革を行ないます。
■寛政5(1793)年に、家斉と対立して更迭されます。当時、天皇家と徳川将軍家で実の父親に尊号を贈ろうとする動きがあったらしい。定信は朱子学を奉じる立場からどちらにも反対します。正論を吐きすぎて家斉に煙たがられたようです。
■定信はクビになったものの幕閣は定信のときと変わらず、定信の政策を引き継いだそうです。定信の政治理念は硬派の武士に好まれたのでしょうか。受け継がれて幕末まで江戸幕府の体制を支えたといわれます。
■定信は白河藩主にもどってからも善政を施し、領民から慕われたとのこと。文政12(1829)年に亡くなっています。満年齢では70歳ぐらいだったようです。
■本日は江戸後半の政治体制を決定づけた大物政治家の250年目の誕生日を記念し、松平定信に関する雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]田沼意次の賄賂政治を憎みながら田沼に賄賂を贈ったことがある
[ろ]いつもしかめっつらをしていたため、「たそがれの少将」と呼ばれた
[は]家斉(いえなり)に斬りつけられたことがあるが、剣術の名人だったため、すばやく身をかわし、11代将軍をとりおさえて諫めたことがある
[に]若い女性とふたりで寝所に入りながら何もしなかったことを自慢している
[ほ]日本最古の公園を作った
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]田沼意次の賄賂政治を憎みながら田沼に賄賂を贈ったことがある(○)
■定信が残した文書の中に、いやいやながら金品を贈ったという記述があるらしい*2。「言行不一致の人」と非難することもできます。でも、むしろ現実に即した生き方をしたと見るべきでしょう。のちに自分の意見を曲げずに将軍に切り殺されかけているとのこと。ご都合主義や事大主義でふらふら動く人物ではなさそうです。
[ろ]いつもしかめっつらをしていたため、「たそがれの少将」と呼ばれた(×)
■正しくは、「定信は歌もよくした。よく知られた作品の一節から『たそがれの少将』と呼ばれた」だそうです。寛政の改革といえば、倹約・節約とうるさかつたイメージがあります。窮屈な雰囲気で、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」という田沼時代をなつかしむ狂歌が作られたと言われます。だから定信自身もいつもしかめっ面をしていたという想像も無理はありません。
□定信は、政治家としての手腕もさることながら、文人としても優れていたようです。「花月草紙」、「宇下人言(うげのひとこと)」など100以上の著作も残しています。頼山陽(らい さんよう)などとも交流していたとのこと。
□「たそがれの君」の由来となった歌は、「心あてに 見し夕顔の 花散りて 尋ねぞ迷ふ たそがれの宿」というものらしい。「尋ねぞ迷ふ」ではなく、「尋ねぞわぶる」だというう説もあります。「源氏物語」の「夕顔」にちなんだ歌らしい。名君には悪いけど、21世紀の無風流人としては、あまり感動を覚えない歌です。
[は]家斉(いえなり)に斬りつけられたことがあるが、剣術の名人だったため、すばやく身をかわし、11代将軍をとりおさえて諫めたことがある(×)
■正しくは、「…斬りつけられそうになったが、そばにいた幕臣の機転で助かった」だそうです。家斉が自分の父親である一橋治斉に「大御所」という尊号を贈ろうとしたとき、松平定信は反対したそうです。家斉が怒って小姓から刀を受け取り定信を切ろうとします。とっさにそばにいた平岡美濃守頼長(ひらおかみののかみよりなが?)が、「越中殿、御刀を賜るゆえ、お早く頂戴なされよ」と叫んだとのこと。家斉はテンションが下がり、定信に刀を授けて奥に引っ込んでしまったらしい。なお、越中殿は定信の呼び名とのこと。
[に]若い女性とふたりで寝所に入りながら何もしなかったことを自慢している(○)
■儒学を大切にしていたそうです。性欲も抑圧していたらしい。性行為は子孫を増やすためのものであり、欲望に負けそうになったことは一度もないと言っていたらしい。参考資料*1によれば、いちど手をつけた女性を手放す際に寝所をともにし、嫁ぐための心得などを教え諭したことがあるようです。「いささかも凡情(情欲)起こらず」と書き残しているとのこと。若い女性とふたりきりで寝て凡情も起こらなければ、息子も起きださない。聖人と申しますか、野暮な殿様と申しますか。ひょっとしたら単に勃起不全なのかな。
[ほ]日本最古の公園を作った(○)
■定信が作った公園は、福島県白河市にある南湖公園(なんここうえん)だそうです。享和元(1801)年、白河藩主だったころに造成したらしい。定信は、この地を身分の差を越え庶民が憩えるレクリエーション地として開放したそうです。「四民共楽(しみんきょうらく)」という考えがあったらしい*3。
□日本の公園制度は、明治6 (1873)年の太政官布告に始まったそうです。でも、作った意図や思想が、欧米のそれと違わなかったので、南湖公園が日本最古の公園と呼ばれているようです。
◆参考*1:HP「松平定信 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
◇*2HP「田沼意次 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1
◇*3HP「南湖公園 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B9%96%E5%85%AC%E5%9C%92

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