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zoom RSS 後三年の役終結の日。公金横領容疑から鎌倉幕府は誕生したの?

<<   作成日時 : 2008/12/11 06:39   >>

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★歴史★
問題:1087年の今日、12月11日。和暦では、寛治元年11月14日。東北地方を舞台にした後三年の役(ごさんねんのえき)が終結しました。源義家(みなもとのよしいえ)と清原清衡(きよはらのきよひら)の連合軍が勝利し、清原清衡は藤原氏を名乗ります。奥州の清原氏が消滅し、奥州藤原氏が誕生します。文治5(1189)年に源頼朝に滅ぼされるまで約100年の間、奥州の覇者として君臨し、中尊寺金色堂に見られるようなきらびやかな平泉文化の花を開かせた政権の誕生です。
■後三年の役は、その20年ほど前、康平(こうへい)5(1062)年に終結した前九年の役(ぜんくねんのえき)と深くとつながっています。前九年の役は、陸奥の国(青森、岩手、宮城、福島)の豪族安部一族と源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)らの戦いでした。頼義と義家は朝廷に命じられてやってきたようです。
■前九年の役は12年も続いたらしい。長引く勝負に決着をつけたのは、出羽の国(秋田・山形)の豪族清原武則(きよはらのたけのり)が、頼義・義家軍に加勢したことだったようです。
■清原氏は戦功を認められ、陸奥の国にまで勢力を拡大します。清原武則の息子に武貞(たけさだ)がいました。武貞は、敵方の女を自分のものにします。女は安部一族の親分だった安部頼時(よりとき)の娘だそうです。既婚者で子供もいました。旦那は藤原経清(ふじわらのつねきよ)という安部一族の重役だったらしい。乱後に処刑されています。子供は後三年の役の主人公清衡です。武貞は、母を自分の女とし、息子を自分の養子にしたようです。のちに彼女と武貞の間には、子供が生まれます。家衡(いえひら)です(口絵の系図参照)。
■武貞には、嫡男の真衡(さねひら)がいました。真衡は武貞の跡目を相続します。真衡には子供がありません。養子を貰いました。成衡(なりひら)だそうです。伊勢物語のモデルと言われる色男(在原業平)ではありません。平氏の血をうけつぐ者だったらしい。
■真衡は、成衡に嫁をとらせます。花嫁は、前九年の役の戦勝者のひとり源頼義と、平氏の血統書付きの人物の娘のあいだにできた女だそうです。清原真衡は、有力な勢力である平氏と源氏のまざった優良血統書つき家系を築こうとしていたらしい。
■安部一族の血の流れる清衡や家衡は、いちおう清原一族ではありますが、傍流として影がだんだん薄くなるのを感じていたのでしょう。そんなとき、みょうちきりんな事件が起こります。
■成衡の婚礼の祝いにかけつけた吉彦秀武(きみこのひでたけ)という豪族がいます。20年前に終わった前九年の役で清原武則を助けて活躍したらしい。その後も武貞、真衡を支えてきたとのこと。秀武は、はるばる出羽から一族を引き連れ、真衡に贈り物を持ってきました。朱塗りの盆に砂金を盛り、頭上に捧げもったらしい。ところが、真衡は碁に夢中になっており、完全に無視したそうです。
■一族郎党の前で恥をかかされた吉彦秀武は激怒し、砂金を庭にぶちまけ、出羽に帰ってしまいます。その振る舞いを聞いた真衡も激怒し、吉彦秀武討伐軍を組織します。永保3(1083)年、出羽に向けて出陣します。後三年の役の始まりです。
■吉彦秀武は、清衡や家衡に密使を送り、ともに戦おうと誘います。清衡と家衡は応じて真衡の本拠地に軍勢を差し向けます。でも真衡が本拠地にとって返すと、2人は正面衝突を避け、撤退したそうです。清衡と家衡を追っ払った真衡は、あらためて吉彦秀武征伐の準備を進めていきます。
■永保3(1083)年の秋、京都から源義家が新任の陸奥守(むつのかみ)として赴任してきます。真衡は義家の歓迎の宴を三日間開いたあとで、出羽に向けて出陣します。ところが行軍の途中で真衡は急死してしまいます。過労死かな。
■好機到来とばかりに清衡と家衡は真衡の本拠地を襲撃します。でも、真衡側についた義家軍に惨敗し、降伏したらしい。清衡と家衡は、真衡の領地を3カ国ずつ分け与えられたと参考資料*1には書いてあります。負けて領地を貰うのは現代の感覚ではちょっと変ですけどね。
■ところが、家衡は分割案に不服でした。応徳3(1086)年に清衡の館を襲撃し、家族をみなごろしにします。清衡と家衡は、父こそちがいますが、おなじ母の血をわけた異父兄弟です。悲しいことになってしまいました。かろうじて逃げ延びた清衡は、義家の支援を受けて家衡と戦います。清衡と義家は、沼柵(ぬまのさく)と呼ばれる砦(現秋田県横手市)に立てこもった家衡を攻撃しましたが、冬の戦いに備えがなかったらしく、失敗したようです。
■沼柵攻防戦における家衡勝利の知らせを聞いた清原武貞の弟清原武衡は、軍勢を従えて甥である家衡のもとに駆けつけ、武勲を褒めたたえたらしい。武衡の提案で、金沢柵(かなざわのさく)という砦に武衡・家衡連合軍は立てこもります。清衡・義家連合軍は寛治元(1087)年に寄せてきますが、守備が堅く、落とせません。
■寛治元(1087)年もおしつまってようやく砦は落ちました。逃亡をはかった武衡と家衡は921年前の今日、殺されました。これで、後三年の役はおしまいです。清衡は、義父家から実父家へと姓を変更すべく中央に届け出ます。清原氏は消滅し、奥州藤原氏が誕生します。お疲れ様でした。
■では、清原家衡、武衡の死をいたみつつ、また奥州藤原氏の誕生を祝いつつ、後三年の役に関する雑学クイズです。次のうち正しい記述はどれでしょうか?
[い]金沢柵を落とせたのは、記録上いちばん古いと言われる兵糧攻めを用いたからである
[ろ]義家は、金沢柵への行軍中、頭上を飛ぶ鶴の群れが乱れているのを観て、待ち伏せ部隊の存在を知り、これを討ち破った
[は]中央では義家は公金横領の疑いまでかけられたが、そのことがのちに鎌倉幕府が誕生することにつながった
[に]後三年の役で活躍した武将鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)は、右目に射抜かれたが臆せず襲いかかり、射手を切り殺したといわれる
[ほ]清衡は、戦いのさなかに自分をののしった武将を捕らえて木に吊るし、その足元に清原武衡の首を置いた。武将が疲れ、主君武衡の頭に足を乗せると「ざまあみろ」と喜んだ
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[は]が正しい
説明:[い]金沢柵を落とせたのは、記録上いちばん古いと言われる兵糧攻めを用いたからである(○)
■金沢柵は難攻不落といわれた砦だそうです。案の定、攻撃はなかなか成功しなかったらしい。吉彦秀武の提案で兵糧攻めが行なわれたらしい。食糧不足になった家衡・武衡軍は砦に火を放って逃走を試みます。武衡は捕らえられて斬首され、家衡は討ち取られたらしい。この兵糧攻めが、記録に残るものとしては日本最古だそうです。
[ろ]義家は、 金沢柵への行軍中、頭上を飛ぶ鶴の群れが乱れているのを観て、待ち伏せ部隊の存在を知り、これを討ち破った(×)
■正しくは、「…頭上を飛ぶ雁の群れが…」だそうです。「雁行の乱れ」として、絵の題材になったりする有名な逸話らしい。たしかに雁は「く」の字形に隊形を整えて飛行することで知られます。
□義家は、大江匡房(まさふさ)に師事しており、孫子の兵法を学んでいたらしい。雁行の乱れから伏兵の存在を知ったときには、「匡房なかりせば」と師の恩に感謝したらしい。
□大江匡房の曾孫が大江広元(ひろもと)だそうです。文官として鎌倉幕府成立に貢献した人です。暗殺を予感したのか、三代将軍源実朝(さねとも)に、「腹巻きを巻いて行け」と忠告した人でもあります。実朝は忠告をきかずに公暁(くぎょう)に切り殺されます。実朝の最期の言葉は「広元やある」だったと伝えられます*2。
[は]中央では義家は公金横領の疑いまでかけられたが、そのことが後に鎌倉幕府が誕生することにつながった(○)
■朝廷は、後三年の役は義家の私戦であるとして戦費の支払いを拒否したらしい。やむなく貢納(こうのう)すべき金(きん)などを戦費にまわしていたそうです。税金も中央に対して送れなかったので、責められたらしい。
□義家は陸奥守を解任されます。その後、なかなか他の官職にはつけなかったようです。さらに10年ほどのあいだは、未納分の税金を請求され続けたらしい。
□おもに関東から出征した兵士に対する恩賞は、私財を投げ出して与えたらしい。義家はだいぶ苦労したようです。でも、関東において源氏は信用をかちえ、名声は高まったとのこと。100年ほどあとに、源頼朝が挙兵します。石橋山の緒戦に敗れたあと、わずか2ヶ月ほどで平氏の本隊を富士川で退けるまでの大軍が集まりました。ご先祖様の苦労があったからと言われます。
□ちなみに義家の曾孫の一人が義朝(よしとも)です。風呂場で暗殺された人ですね*4。その子供が頼朝や義経などの兄弟です。
[に]後三年の役で活躍した武将鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)は、右目に射抜かれたが臆せず襲いかかり、射手を切り殺したといわれる(×)
■正しくは、「…射手を射殺した」だそうです。右目を射抜かれていながら弓をつがえ、左目で相手をとらえて当ててしまうのですから、腹が据わっています。この人、わずか16歳だったらしい。
□自陣に帰って苦しんでいる景正の矢を抜こうと、仲間の武士が顔に足をかけたところ、景正は怒って刀を振り回したらしい。「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」といったようです。
[ほ]清衡は、戦いのさなかに自分をののしった武将を捕らえて木に吊るし、その足元に清原武衡の首を置いた。武将が疲れ、主君武衡の頭に足を乗せると「ざまあみろ」と喜んだ(×)
■正しくは、「義家は…」だそうです。金沢柵の攻防戦で敵の武将が義家の悪口をいいつのったらしい。かなり頭に来ていたようです。敵が総崩れになったとき、その武将を捕らえ、金属製の箸を使って歯を折り、舌を切り落としたらしい。さらに木に吊るします。どんな形の緊縛なのかわかりませんが、疲れて足を下ろすと武衡の頭に足が乗るようになっていたらしい*3。昔の武士は顔や頭に足がかかるのをひどく嫌うようですね。
□おしゃべりが過ぎて舌を抜かれたのは家衡の乳母の息子だったようです。武衡は直接の主君ではないかもしれません。いずれにせよ、なかなか血なまぐさく、加虐趣味にあふれた風景ではあります。
◆参考*1:「後三年の役 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9
◇*2HP「満26歳で散った源実朝。中国への渡航を計画していたの? 」
http://blog.q-q.jp/200809/article_28.html
◇*3HP「清原武衡 Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E8%A1%A1
◇*4HP「頼朝、義経兄弟の父はだれ?」
http://blog.q-q.jp/200511/article_156.html

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