原敬(はらたかし)暗殺の日。動機は上司の言葉の聞き間違いなの?

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★歴史★
問題:大正10(1921)年の今日、11月4日。平民宰相と言われた原敬(はらたかし、はらけいとも)が東京駅丸の内南口コンコース(広場、大通り)で右翼の青年中岡艮一(なかおかこんいち)に襲撃され、死亡しました。満65歳だったそうです。
■原敬は、安政3(1856)年2月9日に、盛岡藩盛岡城外の本宮村(現盛岡市内)で生まれたそうです。実家は盛岡藩の家老職もつとめた上級士族だったとのこと。
■明治3(1870)年に藩校「作人館」に入学。翌年上京して「共憤(きょうふん?)義塾」に入学します。学費滞納により数ヶ月で退学したらしい。ちなみに共憤義塾は南部藩が自藩の青年のために設立した学校だそうです。戊辰戦争で朝敵となった東北各藩は薩長藩閥への憤りが強いといわれます。「共憤」という文字はその敵愾心と関係があるのかな。
■明治5(1872)年に金のかからない神学校で学び始めたようです。明治9(1876)年には司法省法学校を受験しています。受験者中2番の成績で合格したものの、寄宿舎の待遇改善行動に関係したという理由で退学させられています。
■その後、中江兆民(なかえちょうみん)の仏学塾に在学したのち、明治12(1879)年に郵便報知新聞社に入社しました。フランス語新聞の翻訳を担当していましたが、論文も書くようになったそうです。明治14(1881)年の政変で大隈重信(おおくましげのぶ)の一派が同社に乗り込んでくると、連中とそりがあわなかったのか、退職しています。
■その後、藩閥政府の御用政党の機関紙「大東日報(だいとうにっぽう)」の主筆になりますが、経営不振のため短期間で辞任します。明治15(1882)年に外務省に採用され、翌年天津領事として赴任します。のちにはパリ公使館に勤務します。
■その後、陸奥宗光(むつむねみつ)の引きで出世します。明治29(1896)年、第二次松方内閣で大隈が外相として入閣したのをきっかけに官僚生活を辞めたようです。よほど大隈重信が嫌いなのかな。
■その後、明治33(1900)年に伊藤博文(いとうひろぶみ)が立憲政友会を組織すると、原敬も参加して幹事長に就任します。同年、12月に星亨(ほしとおる)が汚職事件で辞職すると、伊藤内閣の逓信大臣として初入閣しています*6*7。
■立憲政友会で活動を続けた原敬は、大正7(1918)年に米騒動によって倒れた寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣のあとを引き継ぎ、原敬内閣を組閣します*4*5。日本で初めての本格的政党内閣と呼ばれているそうです。
■では、就任3年目にして凶刃に倒れた平民宰相の死を悼みつつ、暗殺事件と原敬についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]読売新聞社の社長をつとめていたことがある
[ろ]暗殺事件は軍部による陰謀という説がある
[は]犯人の中岡艮一は、上司との政治談義の中である言葉を聞き違えたために犯行に及んだという説がある
[に]「宮中某重大事件」が暗殺のきっかけになったという説がある
[ほ]平民宰相と呼ばれたが、実際には爵位を欲しがって自ら働きかけていたことがある
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[は]、[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]読売新聞社の社長をつとめていたことがある(×)
■正しくは、「大阪毎日新聞社の社長をつとめていたことがある」だそうです。明治29(1896)年に大隈重信の外相就任を嫌って退官した原敬は、翌年に大阪毎日新聞社に入社したそうです。さらにその翌年の明治31(1898)年には社長に就任したとのこと*2。
[ろ]暗殺事件は軍部による陰謀という説がある(○)
■参考資料*1によれば、中岡艮一は死刑の求刑に対して一審で無期懲役の判決を受けています。控訴院、大審院でもおなじ判断で確定しました。これらの審理が異例の速さで行なわれ、調書等がほとんど残されていないのが怪しい点だそうです。
□その後、3度の大赦を受け、昭和9(1934)年には釈放されているとのこと。戦時中に比較的安全と考えられる軍司令部付の兵となっていたことなども怪しい点らしい。怪しい点を結んでいくと、黒幕として軍部の存在が浮かび上がるようです。
[は]犯人の中岡艮一は、上司との政治談義の中である言葉を聞き違えたために犯行に及んだという説がある(○)
■犯人の中岡艮一は鉄道省山手線大塚駅の職員だったそうです。犯行当時わずか18歳でした*3。
□中岡艮一は、犯行の1ヶ月前に、上司の橋本某と政治談義をかわしたようです。その際、現政権である原敬の政治批判が話題になったらしい。橋本は「今の日本には武士道精神が失われた」と嘆き、昔なら悪いことをした者は腹を切ったものだという意味のことを述べたそうです。中岡は、「腹」と「原」を聞き違え、「私が原を切ってみせます」と言い放ったらしい*1。
□橋本は、事件の直接のきっかけをつくったとして殺人教唆の疑いで逮捕されているとのこと。判決は無罪だったそうです。
[に]「宮中某重大事件」が暗殺のきっかけになったという説がある(○)
■「宮中某重大事件」というのは、昭和天皇が皇太子の時代に、皇太子妃決定をめぐって紛糾した事件だそうです。大正9(1920)年、皇太子妃として久邇宮良子(くにのみやながこ)が内定します。彼女は薩摩藩の血が流れていたらしい。長州閥である元老山縣有朋(やまがたありとも)らは薩摩閥の発言力が増すことを恐れたのか、「母系に色盲遺伝がある」として反対したそうです。一般には薩摩対長州の藩閥の喧嘩として受け止められました。参考資料*8には、別の背景もあったと記されています。
□原敬は山縣有朋と協調してきた関係で、山縣の婚約破棄説に明確な反対姿勢を見せなかったらしい。そのため、右翼からは君側の奸(くんそくのかん、君主のそばにつかえ、君主におもねって悪をなす者)」として狙われたそうです。結局、この話は翌年になって内定不変更の発表で決着したとのこと。明治・大正の政界に隠然たる影響力を持っていた山縣有朋の権威はこの事件で失墜してしまったそうです。
[ほ]平民宰相と呼ばれたが、実際には爵位を欲しがって自ら働きかけていたことがある(○)
■もともと上級士族の出身です。分家して平民籍に編入されたそうですが、家柄についての誇りが強かったといわれます。
□平民であると意識的に振る舞い始めたのは、明治末期以降だそうです。立憲政友会の中で大きな存在となり、自信を深めてからのようです。それまでは、貴族院議員を目指して井上馨(いのうえかおる、当時の実力者)に推薦を要請したこともあったとのこと。また、爵位授与を望んで何度か運動していたらしい*2。
□参考資料*2では、貴族院議員の議席や爵位を欲しがった理由は、「立憲政友会の内部での影響力低下を懸念したから」と推測されています。立憲政友会に参加した当時は議席がありませんでした。そのために貴族院議員でもいいから議席が欲しかったのかもしれません。でも、明治35(1902)年の第7回衆議院総選挙で盛岡市選挙区から立候補して初当選し、貴族院議員の議席はいらなくなったようです。
□後年、貴族院議員について「錦を着た乞食」と罵倒していたそうです*2。う~む。以前なりたがっていた人物の発言とは思えません。好感度は少し下がるな。
◆参考*1:HP「原敬暗殺事件 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC%E6%9A%97%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◇*2HP「原敬 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
◇*3HP「中岡艮一 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B2%A1%E8%89%AE%E4%B8%80
◇*4HP「みんな怒り出した米の暴騰ってどのくらいのもの? 」
http://blog.q-q.jp/200607/article_32.html
◇*5HP「夏の甲子園第1回大会開催の日。戦争以外での中止はどんな理由なの? 」
http://blog.q-q.jp/200808/article_14.html
◇*6HP「戒告もあれば辞職もあり。永田議員の運命は? 」
http://blog.q-q.jp/200602/article_97.html
◇*7HP「20世紀最初の年の流行語。「告別式」は1901年に生まれた言葉なの?」
http://blog.q-q.jp/200806/article_6.html
◇*8HP「宮中某重大事件 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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