吉田茂の命日。戦後日本の進路を決めた男は、11歳で路頭に迷ったの?

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★歴史★
問題:昭和42(1967)年の今日、10月20日。政治家・外交官の吉田茂(よしだしげる)が亡くなりました。89歳でした。
■戦後の早い時期に総理大臣を何度も務めた人物です。戦後日本の進路を決めた男と言われます。今の日本の進路を決めている麻生太郎首相の母方の祖父にあたるそうです。
■死去から10日ほど経過した10月31日に国葬が行なわれました。戦後唯一の国葬だそうです。当時、中学生でした。あまり感慨はありませんでした。テレビのチャンネルをかえてもかえても同じ場面が写されていたことはうっすら記憶にあります。学校は休みだったかな。
■吉田茂は、明治11(1878)年9月22日、神田駿河台に生まれたそうです。西南戦争の翌年ですね。明治の香りの漂う人物だったようです。東京大学を卒業して外交官となります。三国同盟に反対し、戦争回避のために尽力しますが失敗。戦争中はイギリスを通じた講和などを画策します。その活動が軍部ににらまれたらしく憲兵隊に拘束されたそうです。
■戦後はおもに政治家として活躍。サンフランシスコ講和条約を結んだことは、歴史の教科書にも記載されています。池田勇人や佐藤栄作などの人材を発掘し、保守政治の基礎を築きました。
■では、戦後日本の歩むべき道を模索した大物政治家の遺徳をしのびつつ、吉田茂にかんする雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]実の父親は、自由民権運動の闘士だった
[ろ]幼いころ養子に出されたが、養子先の義父が若死し、11歳で路頭に迷うことになった
[は]最終学歴は東京帝国大学卒業だが、それまでに学校を転々とした
[に]ニ・ニ六事件後の広田内閣の組閣では、外務大臣の候補にあがったが海軍の反対でかなわなかった
[ほ]戦時中、憲兵隊に拘束されたのは、自宅に潜入したスパイの密告による
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[は]、[ほ]が正しい
説明:
[い]実の父親は、自由民権運動の闘士だった(○)
■実の父親は、高知県宿毛市(すくもし)出身の竹内綱(たけうちつな)という人だそうです。吉田茂は5男だったらしい。竹内綱は、土佐藩家老伊賀氏の家臣の家柄だったそうです。維新後は同郷の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)とともに実業界に入ります。板垣退助(いたがきたいすけ)の自由党創立にも参加します。明治23(1890)年の第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。自由党土佐派を率いたそうです*2*3。
[ろ]幼いころ養子に出されたが、養子先の義父が若死し、11歳で路頭に迷うことになった(×)
■正しくは、「…11歳で大きな遺産を受け継ぐことになった」だそうです。吉田茂は明治14(1881)年8月に横浜の豪商、吉田健三(よしだけんぞう)の養子になっています。3歳にもならないときです。
□吉田健三は、越前福井藩士の長男でした。脱藩して大坂で医学を学び、ついで長崎で英学を学んだそうです。慶応2(1866)年にはイギリス軍艦でイギリスに密航し、2年間滞在して西洋の新知識を吸収したらしい。
□帰国後は英国商社の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげたそうです。3年後に退職すると、さまざまな事業を展開していたらしい。横浜有数のお金持ちだったようです。でも明治22(1889)年、40歳で亡くなってしまいます。
□11歳の吉田茂には当時の金で50万円もの財産がころがりこんだらしい。そのころ、白米10kgの価格が33銭だったそうです。白米の価格だけで比較すれば1万数千倍になっています。明治22年の50万円は現在の50億円以上になるのかな。
□なお、吉田茂がこのお金をどのように使ったのか。よくわからないそうです。
[は]最終学歴は東京帝国大学卒業だが、それまでに学校を転々とした(○)
■小学校を卒業してからの学歴は、次のようなものらしい。まず、10歳のとき、寄宿制私立中学耕余義塾に入学し、15歳で卒業しています。その年の9月に日本中学校(現・日本学園 )に入学し、翌年9月には高等商業学校(現・一橋大学)に入学しますが、11月には退校しています。18歳の3月に正則尋常中学校(現・正則高等学校)を卒業し、9月に東京物理学校(現・東京理科大学)に入学しています。19歳の10月学習院高等学科に入学し、22歳の年の8月に卒業しています。すぐに学習院大学科に入学しますが、26歳の年の7月に学習院大学科を退校しています。翌年、学習院大学科が閉鎖されるためだそうです。そして26歳の9月に東京帝国大学に入学し、28歳になる年の7月にようやく東京帝国大学を卒業しています。この年に外交官試験にも受かり、外務省に入省したようです。
□入っただけで卒業していない学校とか、いつ入ったのかわからない学校もあるようです。なにしろ10代のうちから資産家ですから、いろいろな学校を試す経済的な余裕はあったのでしょうね。
[に]ニ・ニ六事件後の高橋内閣の組閣では、外務大臣の候補にあがったが海軍の反対でかなわなかった(×)
■正しくは、「二・二六事件後の広田内閣の組閣で…陸軍の反対で…」だそうです。ナチス・ドイツやムッソリーニのイタリアとは距離を置き、英米に近い立場だったようです。そのため、軍部、とくに陸軍にはにらまれていたようです。
[ほ]戦時中、憲兵隊に拘束されたのは、自宅に潜入したスパイの密告による(○)
■昭和20(1945)年2月に近衛上奏文という意見書が近衛文麿(このえふみまろ)から昭和天皇へ上奏されます。「敗戦を認め、早く講和すべきである」という内容だったらしい。基本の趣旨はいいのですが、ところどころに妙な部分があったようです。「ホントに恐ろしいのは敗戦ではなく、終戦後の混乱に乗じて共産革命が起こることだ」とも書かれていたらしい。そこまではいいとしても、「軍部と共産主義者が結託している」といった見解も記されていたようです。昭和天皇としても読みはしたものの、納得はできなかったらしい。
□吉田茂は近衛文麿などの重臣たちと連絡をとっていたようです。近衛とともにスイスに赴いて和平に導く計画も立てたらしい。近衛上奏文は、まず吉田茂に見せられたようです。吉田茂はその写しをとったらしい。吉田邸には、そのころ女中とその親戚と称する書生がいたようです。彼らがスパイでした。その写しを軍部に届け、吉田茂は憲兵隊に拘束されたそうです。40日ほど拘留されましたが、結局不起訴となったようです。
◆参考*1:HP「吉田茂 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
◇*2「竹内綱 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E7%B6%B1
◇*3HP「日本で最初にルイ・ヴィトンを購入した人は誰でしょうか? 」
http://blog.q-q.jp/200612/article_2.html
◇*4HP「吉田健三 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%81%A5%E4%B8%89

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