ベーブルースが60本目の本塁打を打った日。それまでの記録は何本なの?

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★歴史★
問題:昭和2(1927)年の今日、9月29日。ニューヨーク・ヤンキースの強打者ベーブ・ルースがシーズン60本目のホームランを打ちました。34年後の昭和36(1961)年の10月1日に、おなじくヤンキースのロジャー・マリスが61本目を打つまで、破られなかった記録です。
■ベーブ・ルースは、ブラックソックス事件(選手の八百長事件、大正8(1919)年に発生)で揺れていたとメジャー・リーグに観客を呼び戻し、新しい人気スポーツに育て上げた功労者の1人といわれます。最初に野球殿堂入りした5人の中の1人です。タイ・カッブなどと同時に選ばれたそうです。業界に認められただけでなく、大衆の人気も高かったといわれます。
■ロジャー・マリスがルースの記録を破ったとき、試合数が増えていることを主な理由として、当時のコミッショナーはマリスを認めようとしなかったらしい。多くの人も同調したようです。ベーブ・ルースの人気の大きさが影響したといわれます。
■余談ですが、WBCチャンピオン国の野球ファンから見れば、コミッショナーの疑義表明は無意味に思われます。そもそも、本塁打記録だけでなく、ほとんどの野球の記録は、条件を揃えて比較することができません。リーグや地区、チームが異なれば、相手投手が異なります。首位を争う球団に在籍すれば不利かもしれませんし、高地にホーム球場があれば有利かもしれません。ベーブ・ルースやロジャー・マリスのホーム球場ヤンキー・スタジアム(大正12(1923)年~平成20(2008)年)には若干のインチキがあったとも噂されます。昭和42(1967)年まで、右翼ポールまでの距離が300フィート以下だったそうです。90mよりも短かったときがあるとのこと*2。ベーブ・ルースやロジャー・マリスは共に左打ちで右翼への本塁打が多かったようです。彼らの記録そのものが怪しいことになります。
■その後、マグワイア、ソーサ、バリー・ボンズらがベーブ・ルースやロジャー・マリスの記録を破ります。ところが3人とも薬物で筋肉を増強した疑いが持たれました。法に触れる可能性があるだけでなく、子供たちの英雄にはふさわしくない行為です。いまのアメリカの野球ファンのうち、少なからぬ人たちが、薬物を使っていなかったロジャー・マリスの記録こそ正しい記録であると考えているとか。歴史は繰り返すようです。
■では、アメリカ国民にいちばん愛された野球選手の記念すべき日を祝し、ベーブ・ルースの野球記録に関する雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]もともとはオリオールズに在籍した投手だった
[ろ]1シーズンで23勝12敗防御率1.75の成績をあげ、プレイオフに進出し、最後の対決では14回無失点で全米1に輝いたことがある
[は]ヤンキースに移籍した最初の年、打率376、137打点、150得点を挙げた
[に]ベーブ・ルースが60本の本塁打を記録したとき、破られた記録は、あのジョージ・シスラーの45本だった
[ほ]ヤンキースが背番号制を採用したとき、ルースは4番打者だったので背番号は4に決まった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[い]と[ろ]、[は]が正しい
説明:[い]もともとはオリオールズに在籍した投手だった(○)
■ベーブ・ルースがボストン・レッドソックスに在籍したことはよく知られています。大正3(1914)年なかばから大正8(1919)年まで活躍したらしい。6年間で3回全米チャンピオンになっています。財政難からヤンキースに金銭トレードされ、大正9(1920)年から昭和9(1934)年までヤンキースに在籍しました。15年間で7回全米チャンピオンになっています。
□ベーブ・ルースを売ってからというもの、ボストンは全米1になったことがありません。いわゆる「バンビーノ(ベーブ・ルースの愛称)の呪い」ですね。平成16(2004)年にようやく呪いがとけて、全米1になれました。86年ぶりだったとのこと。
□ボストン・レッドソックスの前、大正3(1914)年の前半には、ボルチモア・オリオールズに在籍していたそうです。このころ、ボルチモアはまだマイナー・リーグだったようです。
[ろ]1シーズンで23勝12敗防御率1.75の成績をあげ、プレイオフに進出し、最後の対決では14回無失点で全米1に輝いたことがある(○)
■大正5(1916)年のシーズンだそうです。ベーブ・ルースはおもに投手として活躍していたわけですが、それもかなりすごい投手だったらしい。翌年も24勝13敗だったとのこと。残念ながらこの年は全米1になれませんでしたが。ベーブ・ルースが21~22歳ぐらいのお話です。
[は]ヤンキースに移籍した最初の年、打率376、137打点、150得点を挙げた(○)
■ヤンキースに移籍した最初の年大正9(1920)年と大正10(1921)年には、わずかに1試合、2試合と投手としても登板しています。すべての試合で勝っています。でも防御率はあまりよくありません。
□このころにはほぼ打者専業となったようです。最初の年の本塁打は54本。成績は驚異的ですが、三冠王にはなれなかったようです。
[に]ベーブ・ルースが60本の本塁打を記録したとき、破られた記録は、あのジョージ・シスラーの45本だった(×)
■正しくは、「…破られた記録は、自分自身の59本だった」だそうです。ヤンキースに移籍した2年目に59本を記録しているそうです。そのころ、多くの選手は2桁のホームランを打つことができなかったらしい。だから飛び抜けて凄い数字なんですね。
□たとえば、大正9(1920)年の本塁打王は54本を放ったベーブ・ルースですが、2番目の記録はセントルイス・ブラウンズのジョージ・シスラーの19本だったそうです。ジョージ・シスラーは、イチローに破られるまで、シーズン最多安打の記録を持っていた人ですね。
[ほ]ヤンキースが背番号制を採用したとき、ルースは4番打者だったので背番号は4に決まった(×)
■正しくは、「…3番打者だったので背番号は3…」だそうです。長嶋が背番号3をつけたのは、やはりベーブ・ルースを意識していたのでしょうか。われらが小学生のころは、1チームに背番号3の選手が何人もいたものです。それはもちろんベーブ・ルースではなく、長嶋に憧れてつけた背番号でした。
◆参考*1:HP「ベーブ・ルース – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9
◇*2HP「ヤンキー・スタジアム – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A0

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