桐野利秋の命日。通称「人斬り半次郎」は、10人以上の幕臣を斬り捨てたの?

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★歴史★
問題:明治10(1877)年の今日、9月21日。桐野利秋(きりのとしあき)という軍人が亡くなっています。おなじ日に西郷隆盛も亡くなっています。亡くなった日がおなじなら、場所もおなじ九州です。お察しのとおり、桐野利秋は西郷隆盛に従って西南の役を戦い、敗れて散った軍人です。
■桐野利秋の名前はさほど有名ではありませんが、「人斬り半次郎」、中村半次郎という名前は聞いたことがあるかもしれません。幕末の暗殺者として知られる土佐の岡田以蔵(おかだいぞう)などと並び、物騒な人物とされています。
■桐野利秋は、天保9(1838)年12月に鹿児島郡吉野村に生まれました。わずか五石という貧窮の武士の家に三番目の子供として生まれたそうです。彼が10歳のころ、父親が罪を得て島流しにあい、なけなしの五石も取り上げられたらしい。兄とともに働いて苦しい家計を支えたそうです。
■文久2(1862)年に島津久光(しまづひさみつ)に従って上京し、列藩の志士たちと交際します。後に明治の公家社会で大きな勢力となった久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の護衛をまかされます。このとき、列藩の藩士たちと交流したそうです。また、薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)の知己を得たらしい。小松帯刀は西郷らに将来を期待されながら維新後に若くして病死した政治家だそうです。
■以後、薩摩藩の倒幕派のひとりとして西郷隆盛の指示を受けつつ活躍します。戊辰戦争でも活躍し、維新後は陸軍少将もつとめます。征韓論をきっかけに西郷が下野すると桐野も従い、西南の役を戦いました。
■では、幕末・維新に活躍し、西南戦争に倒れた薩摩隼人についての雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]人斬り半次郎として「幕末四大人斬り」に数えられており、十人以上を斬ったとされている
[ろ]生麦事件でイギリス人を斬った奈良原幸五郎(ならはらゆきごろう?)や寺田屋事件で斬られた弟子丸龍助(でしまるりゅうすけ)らと親しかった
[は]坂本龍馬に心酔し、脱藩して土佐藩に行こうとしたが、藩の境で断られた
[に]西郷隆盛と山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の会談、勝海舟との会談の護衛をつとめ、彰義隊との戦いに参戦した。戦いののちに刺客に襲われ撃退するも指2本を失った
[ほ]洒落者として知られ、西南の役で亡くなったとき、遺骸からは香水の香りがした
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[に]、[ほ]が正しい
説明:[い]人斬り半次郎として「幕末四大人斬り」に数えられており、十人以上を斬ったとされている(×)
■正しくは、「…に数えられているが、暗殺したことが確認されているのは1人だけ」だそうです。慶応3(1867)年9月3日、公武合体派の軍学者赤松小三郎という人物を斬ったらしい。ただし、つけ狙って殺したわけではなく、たまたま京都市中で遭遇し、幕府の密偵である、ケシカランとして斬り捨てたようです。
□ちなみに、幕末四大人斬りとは、肥後藩の河上彦斎(かわかみげんさい)、薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)、土佐藩の岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛(たなかしんべえ)だそうです。
[ろ]生麦事件でイギリス人を斬った奈良原幸五郎や寺田屋事件で斬られた弟子丸龍助らと親しかった(○)
■働いて家計を支えていたころ、薩摩藩士の若者たちと交流があったようです。生麦事件は、文久2(1862)年、神奈川県の生麦で起こりました。島津久光の行列に無礼を働いたイギリス人を怒った薩摩藩士が斬り捨てた事件です。
□寺田屋事件は、坂本龍馬が襲われたほうではなく、伏見の船宿寺田屋にいた薩摩藩の過激派が、島津久光の命により、粛清された事件のほうです。
[は]坂本龍馬に心酔し、脱藩して土佐藩に行こうとしたが、藩の境で断られた(×)
■正しくは、「長州藩に行こうとしたが、藩の境で断られた」だそうです。元治元年(1864年)の大久保利通(おおくぼとしみち)宛の西郷隆盛の手紙には、「中村半次郎は尊攘激派の中へ入って、長州藩邸にも出入りしているので、長州側の事情はよくわかった」とあるそうです。さらに、「本人が長州へ行きたいといっているので、脱藩したことにして探索させたい。本当に脱藩してしまうかもしれないが、帰ってきたら役にたつ」とも書かれているらしい。
□この5日後の手紙では、「中村半次郎は藩境でとめられて入国できなかった」とあるとのこと。薩長同盟(慶応2年(1866年))が結ばれる前です。公武合体志向の薩摩と尊皇攘夷志向の長州は互いに警戒が強かったようですね。
□坂本龍馬に心酔していたかどうかはわかりません。Wikipediaによると、「犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡等に奔走した」とあります。海援隊はもちろん龍馬が親分です。一緒に殺された中岡慎太郎は陸援隊の親分だったそうです。ともに親分を失いました。葬式関係の手配とかたいへんだったでしょう。
[に]西郷隆盛と山岡鉄舟の会談、勝海舟との会談の護衛をつとめ、彰義隊との戦いに参戦した。戦いののちに刺客に襲われ撃退するも指2本を失った(○)
■西郷隆盛の信任が厚かったようです。江戸無血開城交渉の予備会談、本会談の護衛をまかされたとのこと。西郷が駐屯していた駿府には、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎(鉄舟)まかり通る」と大声を張り上げながら190cm近い大男があらわれたそうです。桐野利秋も驚いたでしょうね。
□上野の彰義隊との戦いのあとで、銭湯に行ったそうです。彰義隊の戦いがあった日に銭湯が営業していたというのが驚きですね。戦闘後の銭湯の洗い場は、少し血なまぐさかったのかな。
□その帰りに鈴木隼人という剣客を含めた3人の襲撃を受けたとのこと。なんとか撃退しますが、左手中指と薬指を失ったそうです。
□戊辰戦争では、さらに会津藩攻撃に参加し、会津藩が降伏したとき、官軍を代表して会津城受け取り役をつとめたとのこと。このときの処置の見事さでも世に名が知られたとのこと。「あのような見事な仕切りをどこで学んだのか」と問われ、「芝居の忠臣蔵を見て、赤穂城明け渡しの部分をそっくり真似しただけ」と答えたという伝説があるそうです。
□なお、現在演じられている忠臣蔵には、城明け渡しを描写した場面はありません。昔の忠臣蔵にはあったのかな。
[ほ]洒落者として知られ、西南の役で亡くなったとき、遺骸からは香水の香りがした(○)
■陸軍少将時代、軍服はフランス製のオーダーメイドだったそうです。金無垢の懐中時計を愛用し、軍刀の拵え(こしらえ、装飾)が純金張りの特注品だったとか。フランス香水を愛用していたそうです。平時はもちろん、亡くなったときもその香りがしたらしい。
◆参考:HP「桐野利秋 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E9%87%8E%E5%88%A9%E7%A7%8B
◇書籍「名作歌舞伎全集2 丸本時代物」戸板康二他監修、東京創元社

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