明治日本を震撼させた大津事件判決の日。死刑判決はなぜ出なかったの?

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★歴史★
問題:明治24(1891)年の今日、5月27日は、大津事件の被告に無期懲役が宣告された日です。大津事件は、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが警備の巡査津田三蔵(つださんぞう)に斬りつけられた事件です。事件から判決までわずか2週間余り。当時は裁判所に「すぐやる課」があったのかな。
●事件は5月11日のお昼過ぎに起こったらしい。京都から日帰りの琵琶湖観光をした帰り道、大津市内で起きたとのこと。津田三蔵のサーベルはニコライの頭部に長さ9cmの傷をつけました。ニコライは逃げ出しますが津田も追いかけます。関係者に妨げられ、津田三蔵は取り押さえられました。
●当時のロシアは大国であり、日本は発展途上国です。13年後の日露戦争でも引分けに近い勝利です。明治24(1891)年の時点では太刀打ちできません。粗相があってはならぬと、ニコライに対しても最大級のもてなしです。たとえば5月だというのにお盆に行なわれる大文字焼きをして見物させたそうです。
●「ニコライ オソワル」の電報が届き、翌5月12日朝、明治天皇は東京をたちます。同日夜には療養中のニコライに会おうとしますが侍医に断られます。やむなく京都御所に泊まり翌日に見舞ったらしい。
●明治政府としては、賠償金や領土の割譲を要求してくるのではないかと危惧したようです。一般国民は、報復にロシアが攻めてくるとおびえたらしい。
●日本中が大騒ぎしたこの事件につき、伊藤博文(いとうひろぶみ)は死刑にすべしと主張します。松方正義(まつかたまさよし)首相、山田顕義(やまだあきよし)法相らも同調します。しかし、時の大審院院長児島帷謙(こじまこれかた)は、司法の独立、法治主義を楯に譲らなかったそうです。日本の皇族に対して危害を加えれば大逆罪で死刑も適用できる。でも、ニコライはロシア皇族とはいえ外国人であり大逆罪が適用できない。日本の法としてはそれが筋らしい。結局、児島は意見を曲げず、一般人に対する謀殺未遂罪が適用され、無期徒刑の判決が下ったとのこと。
●この判決は、ロシアを含めた西欧諸国に対し、日本は法治国家であるという印象を強く与えたそうです。以後の不平等条約改正に有利に働いたらしい。
●ただし、児島のこの時の行動は、問題なしとはいえないそうです。たとえば自ら担当判事を説得してまわったらしい。これは裁判官の独立という理念からは逸脱しているとのこと。
●細かいことはともかく、日本が法治国家として世界に認められた大事件は、結果としては吉と出ました。では、津田三蔵被告の命が藩閥政府の都合によって奪われなかったことを記念し、大津事件に関する雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]ニコライは馬車に乗って移動中に斬りつけられた
[ろ]ロシアの報復を恐れた伊藤博文は、反対する者がいれば戒厳令を出しても死刑にすべきであると主張した
[は]5月20日には、死を以て詫びるとして京都府庁の前で自殺した女性がいた
[に]津田は「殺すつもりはなかった」と供述している
[ほ]津田三蔵にタックルしてニコライを助けた者たちは、表彰され、長く幸せに暮らした
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[は]、[に]が正しい
説明:●[い]ニコライは馬車に乗って移動中に斬りつけられた(×)
正しくは「…人力車に乗って…」だそうです。接待役の有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)と、ニコライと一緒に訪日したギリシャ皇太子は3台の人力車で移動したらしい。
●[ろ]ロシアの報復を恐れた伊藤博文は、反対する者がいれば戒厳令を出しても死刑にすべきであると主張した(○)
伊藤博文は国家の意志を優先すべきという最強硬派らしい。さらに変わった意見としては、逓信大臣後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、「津田を拉致し拳銃で射殺することが善後策になる」と語ったらしい。
○後藤象二郎は元土佐藩士です。坂本龍馬の記した「船中八策(せんちゅうはっさく)を藩主の山内容堂(やまのうちようどう)に仲介したことで知られます。この献策にのっとり、「大政奉還建白書」が起こされ、徳川慶喜(よしのぶ)がそれをのんで慶応3(1867)年に朝廷に大政奉還を願い出ます。いわば歴史を動かした人物の1人です*5。それにしては、大津事件に際しての発言はお粗末ですね。なお、後藤象二郎は日本で最初にルイ・ヴィトンの製品を買ったとされています*3。
●[は]5月20日には、死を以て詫びるとして京都府庁の前で自殺した女性がいた(○)
ニコライの元には全国から見舞いの電報が1万通寄せられたとのこと。畠山勇子(はたけやまゆうこ)という25歳の女性は、ニコライ宛の謝罪を記した遺書を残して府庁前でカミソリで喉と胸を切って自殺します。国家消滅の危機と考えて行動したらしい。新聞で大きくとりあげられ、国際社会の同情を買ったようです*4。
●[に]津田は「殺すつもりはなかった」と供述している(○)
津田の供述では、「以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかった」のが動機らしい。「殺すつもりはなく、一太刀献上したまで」とも語っているらしい。それにしても、斬りつけるのは乱暴です。実際は別の動機があったのかもしれません。
●[ほ]津田三蔵にタックルしてニコライを助けた者たちは、表彰され、長く幸せに暮らした(×)
津田三蔵の二の太刀を防いだのは2人の人力車夫だったそうです。彼らは日ロ双方から褒められ、かなりの金を手にしたらしい。でも1人は持ちつけない不相応な金があだとなり、身を持ち崩し、悲惨な晩年だったらしい。もう1人は土地を買って地主になり、県会議員にまで出世します。でも、日露戦争時にロシアのスパイ扱いをされ、辛い生活だったようです。
◆参考*1:HP「大津事件 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6
◇*2HP「児島惟謙 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E6%83%9F%E8%AC%99
◇*3HP「日本で最初にルイ・ヴィトンを購入した人は誰でしょうか?」
http://blog.q-q.jp/200612/article_2.html
◇*4HP「畠山勇子 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E5%8B%87%E5%AD%90
◇*5HP「坂本龍馬暗殺の日。第一容疑者は新撰組なの?」
http://blog.q-q.jp/200711/article_41.html

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