応仁の乱のきっかけとなった喧嘩が起きた日。どこの神社が舞台となったの?

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★歴史★
問題:1467年の今日、2月21日(旧暦では文正2年(応仁元年)1月16日)。応仁の乱のきっかけとなる私闘が行なわれたそうです。場所は、京都のある神社の境内の森だそうです。手勢を集めてチャンチャンバラバラと戦ったのは、畠山家の人々だったとのこと。敵も味方も畠山家なんですね。いわゆる「血で血を洗う」仁義なき戦いだったらしい。この畠山家内部抗争があちこちに飛び火したそうです。やがて11年の長きにわたる内戦絵巻、応仁の乱へと発展するらしい。京都地方を中心として当時の町人たちはとんでもない災難に見舞われるわけですね。
●では、この喧嘩の舞台となった神社とは、次のどれでしょうか?
[い]下賀茂神社
[ろ]北野天満宮
[は]八坂神社
[に]平安神宮
[ほ]上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ほ]上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)
説明:上御霊神社は、地図で見ると、いまの京都御所のちょっと北側に位置します。京都風の言いかたをすれば、「上御霊前烏丸東入(かみごりょうまえからすまひがしいる)」だそうです。つまり、上御霊前通りと烏丸通りの交差点から東に歩けという意味かな。
●Googleの航空写真で見ると、わずかに木立が写っています。当時はともかく、今は森と呼ばれるほどの自然は残されていないようです。
●当日、ここに集結したのは、片方は畠山政長(はたけやままさなが)という武将の元に集った連中です。政長氏は嘉吉2(1442)年生まれとのこと。このとき25歳ぐらい。もう片方は畠山義就(よしひろ)という武将に声を掛けられた連中です。義就氏は永享9(1437)年ごろ生まれています。このとき30歳ぐらい。どちらも当時としては働き盛りだったのかな。
●喧嘩のそもそもの原因は跡目争いです。畠山持国(もちくに)という管領がいます。彼には子供がいませんでした。弟の持富(もちとみ)という人物が養子となり、畠山家の財産・権利を相続することになっていました。畠山家は斯波家(しばけ)、細川家と並んで三管領(さんかんれい)と呼ばれています。足利政権において絶大な権勢を誇っていたようです。
●ところが、持国氏に子供ができてしまいます。喧嘩の当事者の一人、義就(よしひろ、あるいはよしなり)氏です。持国氏は弟より息子を選びます。義就氏に跡目をつがせようとします。当然ながら、既定路線を変更され、金と権力を失う持富氏側は怒ります。
●畠山政長氏は、持富氏の次男だそうです。最初は父(持富)が、次に兄が跡目を争い、その次に政長氏も戦ったようです。義就氏が生まれてから揉めているわけです。30年とはいわないまでも、この日まで20年以上はごたごたしていたのかな。
●義就氏はもうひとつの名家である山名家や斯波家の協力も得て、今日の御霊合戦(ごりょうがっせん)に勝利します。
●でも大将同士は無事だったようです。当事者である政長氏と義就氏が亡くなるのはともに1490年代に入ってからです。それまで延々と跡目争いを続けていたらしい。執念深いというか、諦めが悪いというか。
●現代にも一種の跡目争いはあります。岐阜の選挙区ではつい最近決着がつきましたね。七光りが残り、小泉チルドレンのほうが身を引きました。長く争わないところをみると、当時の管領と比べれば、富も権力もごくささやかなものなのかな。
◆参考:HP「上御霊神社 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE
◇HP「畠山政長 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%95%B7
◇HP「畠山義就 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E5%B0%B1

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