徳川頼宣(よりのぶ)氏の命日。徳川家康の10男坊は吉宗の祖父にあたるの?

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★歴史★
問題:1671年の今日、2月19日(旧暦では寛文11年1月10日)。徳川頼宣(よりのぶ)という地味なオジサンが亡くなりました。彼は徳川家康の第13子であり、10男坊だそうです。
●徳川家康には子供が多かったようです。Wikipediaに挙げられている人物だけでも次のような人がいます。
---松平信康(まつだいらのぶやす)、亀姫(かめひめ)、結城秀康(ゆうきひでやす)
---督姫(とくひめ)、徳川秀忠(とくがわひでただ)、松平忠吉(まつだいらただよし)
---振姫(ふりひめ)、武田信吉(たけだのぶよし)、松平忠輝(まつだいらただてる)
---徳川義直(とくがわよしなお)、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)
---徳川頼房(とくがわよりふさ)その他
長男の松平信康は天正7(1579)年に家康の命により切腹させられています。武田方への内通疑惑があり、同盟関係にあった信長から強く要求されたらしい。
●次男の結城秀康はきわめて優秀な武将だったそうです。なぜか家康にうとまれていたらしい。慶長12(1607)年に梅毒のせいなのか34歳の若さで亡くなっています。こうしてみると、徳川秀忠が第2代将軍になれたのはかなりの強運だったのかもしれません。
●話を戻します。徳川頼宣は、慶長7(1602)年に生まれています。関ヶ原の戦いの2年後ですね。信康はすでにこの世になく、秀康は5年後に薄幸の人生を終えることになります。頼宣氏自身は、平和の時代を享受し、70歳にもうあとすこしというところまで生きました。ではこの将軍家の地味な一員に関する雑学クイズです。次のうちで正しい記述はどれでしょうか?
[い]御三家すべての藩主を経験するという珍記録を持っている
[ろ]謀反の疑いがかけられたことがある
[は]徳川吉宗の祖父である
[に]明の遺臣鄭成功(国姓爺)から援軍の要請を受けたという話がある
[ほ]カミサンは戦国武将伊達政宗の娘だった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[ろ]と[は]、[に]が正しい
説明:●[い]御三家すべての藩主を経験するという珍記録を持っている(×)
正しくは「御三家のうちの水戸藩と紀州藩の藩主を経験し、駿河・遠江の藩主もつとめたことがある」だそうです。惜しいかな、尾州藩(尾張名古屋)の藩主は経験がありません。徳川家康の9男坊である徳川義直が尾州藩の始祖であり、第一代藩主だったそうです。
●[ろ]謀反の疑いがかけられたことがある(○)
慶安4(1651)年の慶安の変では、由井正雪(ゆいしょうせつ)が頼宣の文書を偽造したそうです。そのため、謀反の疑いをかけられ、10年間も紀州に帰れなかったとのこと。当人としては浪人対策を色々打ち出したりしていたらしい。それが裏目に出たのでしょうか。
○結局、疑いは晴れますが、和歌山城の増築を中止せざるをえなかったというお話が残されているようです。和歌山市にはたしかに掘止(ほりどめ)という地名があります。増築をやめたことと関係があるのかもしれません。
●[は]徳川吉宗の祖父である(○)
頼宣の嫡男が徳川光貞(とくがわみつさだ)です。第2代紀州藩主です。光貞の4男坊が吉宗氏です。兄たちの死を受けて第3代紀州藩主になり、藩政改革に辣腕をふるいます。第7代将軍家継(いえつぐ)の死に際しては、尾州公とともに将軍候補として後継指名会議に出席します。尾張大納言が第一の候補です。吉宗は若干不利な立場です。
○司会進行役の大久保加賀守は、まず尾州公に「下万民撫育(しもばんみんぶいく)のため任官あってしかるべし」と迫ります。よせばいいのに尾州公は格好をつけて「余はその徳うすうしてその任に非ず」といったん遠慮してみせます。大久保氏はすぐに吉宗公のほうに向き、同じように意思確認をします。すると吉宗公は「うん、やるよ」とお答えになり、立場は逆転、紀州公が8代目将軍と決まってしまいます。チャンスの女神には前髪しかないという教訓になっています。
○ただし、これは落語「紀州」でのお話です。実際には、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の正室天英院(てんえいいん)や7代将軍家継(いえつぐ)の生母月光院(げっこういん)の尽力があって将軍に就任できたとも言われます。
●[に]明の遺臣鄭成功(国姓爺)から援軍の要請を受けたという話がある(○)
鄭成功(ていせいこう、国姓爺(こくせんや))は平戸で生まれた中国人と日本人のハーフだそうです。彼は明の遺臣として勃興する清と奮戦します。台湾を奪い、ここを足がかりに清の勢力に立ち向かおうとします。頼宣が江戸に禁足状態だったとき、鄭成功の来訪をうけ、明への援軍を依頼されたというお話が残されているそうです。
●[ほ]カミサンは戦国武将伊達政宗の娘だった(×)
正しくは「…加藤清正の娘だった」だそうです。瑤林院(ようりんいん)と呼ばれたそうです。酔っぱらいを上手にさばく女性だったらしい。清正の娘ですから、虎の扱いには慣れています。ははは。酔っぱらい云々はもちろん冗談です。
◆参考:HP「徳川頼宣 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3
◇HP「松平信康 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7
◇HP「結城秀康 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7
◇HP「德川家康 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
◇HP「徳川吉宗 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

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この記事へのコメント

くりスマス
2011年03月15日 14:02
御三家の初代の中では南海公は一番派手では?
くりスマス様<素町人
2011年03月15日 17:20
コメントをありがとうございます。

御三家初代の中ではそうかもしれませんね。
(^^;)

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