平民社が政府弾圧により解散した日。中心人物は天皇暗殺を企てたの?

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問題:明治38(1905)年の今日、10月9日。自由・平等・博愛を掲げ、社会主義、平民主義、平和主義を提唱してきた平民社が解散しました。日露戦争への反戦運動などでその存在を知られてきましたが、機関紙「平民新聞」が発行禁止。後継紙「直言」も発行停止を命じられ、今日の解散に至ったそうです。
●では、この平民社の柱とも言える明治の思想家は誰でしょうか?
[い]中江兆民(なかえちょうみん)
[ろ]内村鑑三(うちむらかんぞう)
[は]堺利彦(さかいとしひこ)
[に]幸徳秋水(こうとくしゅうすい)
[ほ]斎藤緑雨(さいとうりょくう)
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)

























★歴史★
正解:[は]堺利彦と[に]幸徳秋水
説明:堺利彦(さかいとしひこ)は明治3年11月25日(1871年1月15日)に生まれ、昭和8(1933)年1月23日に亡くなっています。社会主義思想家であり、作家でもありました。
●福岡県の没落士族の3男だったそうです。でも勉強は出来たので、一高に入学します。やがて中退。黒岩涙香(くろいわるいこう)の創刊した新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」の記者として社会改良を主張する論説を書き、活躍の場を得たようです。萬朝報は当時いちばんの発行部数を誇っていた大衆紙です。赤新聞と呼ばれたこともあります。堺利彦は紙上で日露戦争非戦論を唱えていました。ところが、萬朝報が売上高優先主義から主戦論に転向してしまいます。がっかりした堺利彦は萬朝報を退社。平民社を創立し、「平民新聞」(週刊)を立ち上げます。このときの同志が幸徳秋水(こうとくしゅうすい)です。キリスト教徒内村鑑三も一緒に萬朝報を退社しましたが、平民社には加わりませんでした。
●幸徳秋水は、明治4年9月23日(1871年11月5日)に四国土佐は中村の豪商の家に生まれました。もともとは「幸徳井(かでい)」という姓とのこと。陰陽師の家でもあったと言われます。
●中江兆民(なかえちょうみん)の弟子になって「秋水」という号を貰ったそうです。秋水とは「秋の大雨」という意味や「秋の清く澄んだ水」、あるいは「(日本の)鋭利な刀」という意味があるとのこと。終戦直前に日本軍が作ったロケットも「秋水」という名前がつけられていました。
●明治34(1901)年、『廿世紀之怪物帝国主義(にじゅっせいきのかいぶつていこくしゅぎ)』を刊行し、帝国主義の危険性を指摘します。田中正造が足尾銅山鉱毒事件で明治天皇に直訴するとき、直訴状を執筆したと言われます。他の者は後難を恐れて逃げたとのこと。
●堺利彦らと一緒に萬朝報を退社し、平民社から「平民新聞」を創刊します。残念ながら明治政府の弾圧にあい、平民社は解散を余儀なくされます。
●その後、明治44(1911)年1月24日、天皇暗殺を企てたとして大逆事件で他の容疑者らとともに死刑に処せられます。秋水自身はまるで冤罪だったそうです。堺利彦はちょうどそのころ入獄しており、難を免れたとのこと。
●斎藤緑雨は明治37(1904)年に36歳で亡くなった明治の作家です。「筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」といった機知に富んだ警句で知られます。幸徳秋水とは親友で、幸徳秋水の全集には緑雨の書翰も収められていたと記憶します。
◆参考*1:HP「堺利彦 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%88%A9%E5%BD%A6
◇*2HP「幸徳秋水 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E7%A7%8B%E6%B0%B4
◇*3HP「斎藤緑雨 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%B7%91%E9%9B%A8
◇HP「幸徳秋水を顕彰する会 公式ホームページ」(口絵の参考にさせて頂きました) 
http://www.shuusui.com/

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