真田幸村は実在しなかったってホント?

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問題:真田幸村をごぞんじでしょうか? 大坂冬の陣、夏の陣で徳川家康をおおいに悩ました軍師、知将です。
●ところが、「彼が生きていた同時代の史料で『幸村』の名が使われているものは存在しない」とのこと。モデルらしい真田信繁(のぶしげ)という人物なら存在するそうです。信繁は江戸時代に入ってから寛文12年(1672)の軍記物語「難波戦記」に「幸村」と記述されます。これ以降、幸村と書かれることが多くなり、信繁の兄で徳川方について延命した信之(のぶゆき)の子孫、松代藩(まつしろはん、現長野県)の史書でも「幸村」と書かれるようになったとのこと。真田幸村と呼んでいるのは後世の人だけのようです。
●それはともかく、真田信繁(幸村)は小さい頃からたいへん頭のいい武将だったらしい。天正10(1582)年、わずかに14、5歳のときのことです。父昌幸に従った彼は、生まれて初めての戦闘で、わずか400人余りの真田軍を、数万の北条軍の虎口から逃れさせるという手柄をたてます。
●どんな手を使ったのでしょうか?
[い]季節風を利用して山に火をかけ、追っ手をさえぎった
[ろ]百姓連に頼んでかかしをたくさん作り、逃げ出した後も気づかれないようにした
[は]敵の重臣と同じ旗印を作り、夜襲をかけ、敵が混乱した隙に乗じた
[に]撤退せよという北条氏康からの偽の指令書を作り、敵の前線を下がらせた
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)


























正解:[は]敵の重臣と同じ旗印を作り、夜襲をかけ、敵が混乱した隙に乗じた
説明:北条方の重臣、松田尾張守の紋所(もんどころ)である永楽通宝を白無地の旗に書き込ませ、これをもって深夜に襲い掛かりました。紋所を見た北条方は松田尾張守が寝返ったかと大混乱し、真田勢はこの隙に上田城に逃げ込むことに成功したというのですが。講談に登場するというお話なので、史実かどうかはわかりませんけどね。
●ともあれ、父である昌幸は、信繁(幸村)の智略に感心し、家紋を六文銭とすることを決めたそうです。永楽通宝の旗指物が6本あったことに由来するとも言われます。どうでもいい話ですけど、織田信長も永楽通宝を旗印や刀の鍔(つば)に使っていたと聞きますよね。
●信繁(幸村)には前出の信之というお兄さんがいて、こちらはわけあって徳川方です。関が原、大坂冬の陣、夏の陣と、敵味方に別れて戦ったらしい。このとき、両方とも六文銭の家紋だと困ります。どうしたのかな。サッカーの場合、紛らわしいときはアウェイの方がユニフォームを変更すると聞きますが。
●真田昌幸、信繁(幸村)親子は関ヶ原の戦いでは石田三成側です。関ヶ原の現場には行きませんでしたが、現在長野県にある上田城という小さな城で、秀忠率いる徳川の大部隊を引きつけ、関ヶ原に行かせませんでした。家康は秀忠の部隊の到着を待ってずいぶんじれていたらしい。結局、秀忠軍抜きで戦いが始まり、形勢は危うかったのですが、ご存じのとおり寝返りに助けられて勝ちを拾ったようです。
●真田信繁(幸村)は夏の陣で戦死します。享年49。一説には薩摩におちのびたとも言われます。落語の「真田小僧」は、「真田三代記」という講釈の話が織り交ぜられています。永楽通宝のニセ旗指物の話が出てきます。若くして知略に優れた信繁(幸村)。比べようもない長屋の小僧ですが、同じように知略を働かせて親父から金を奪い取るのに成功するというお話です。
◆参考:HP「真田信繁 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91
◇CD「圓生百席20『真田小僧/三年目/三十石』」六代目三遊亭圓生、SRCL3839-40、ソニーレコード
◇HP「大坂城:本丸天守閣(南面)と城入り口券売所 (58kB)」(口絵の参考にさせて頂きました)
http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kinki/osaka_lg5.html

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