落語界の大立者、三遊亭圓朝をご存じですか?

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問題:幕末から明治初期にかけて活躍した初代三遊亭圓朝は、落語の歴史の中でも燦然と輝く大スターです。演者として超一流であったのみならず、「真景累ヶ淵」、「牡丹灯籠」や翻案物の「死神」など、数々のネタを残しています。西郷隆盛と勝海舟の会談を実現させ、江戸城無血開城を導いた山岡鉄舟との交遊など、さまざまな逸話を残した人でもあります。●では、圓朝に関する次の記述で正しいのはどれでしょうか?
□[い]圓朝の速記本は二葉亭四迷などの作家に影響を与えた
□[ろ]明治の元勲伊藤博文とも交流が深かった
□[は]19歳で圓朝を名乗り、すでに弟子が2人いた
□[に]初代三遊亭圓朝の亡くなった年に六代目三遊亭圓生が生まれた
□[ほ]本名を出淵次郎吉、晩年の号を無舌という
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)


























正解:[い]と[に]、[ほ]が正しい
説明:●三遊亭圓朝は天保10(1839)年に江戸の湯島に生まれ、十代から落語家として寄席で活躍し、明治33(1900)年に亡くなっています。
●[い]圓朝の速記本は二葉亭四迷などの作家に影響を与えた(○)
たまたま明治初年に速記の技法が日本に輸入され、日本語の速記術が急速に完成をみたそうです。圓朝の演じた落語・講談も速記により文字化され、新聞に連載されて人気を博しました。二葉亭四迷の言文一致体の作品にも大きな影響を与えたと言われます。ちなみに、二葉亭四迷の代表作「浮雲」は明治20(1887)年の作です。
●[ろ]明治の元勲伊藤博文とも交流が深かった(×)
正しくは「井上馨とも交流が深かった」です。還暦の祝いで語ったり、視察旅行に同行させられたりしているらしい。
●19歳で圓朝を名乗り、弟子が2人いた(×)
正しくは「17歳で圓朝を名乗り~」です。安政2(1855)年のことらしい。ペリーが浦賀に来航した2年後のことです。今の基準で考えると早熟の天才です。昔としてはそうでもなかったのかな。
●[に]初代三遊亭圓朝の亡くなった年に六代目三遊亭圓生が生まれた(○)
明治33(1900)年8月11日に初代圓朝が亡くなると、2ヶ月も経たない9月3日にのちの六代目三遊亭圓生、本名山崎松尾(まつお)が大阪に誕生しています。こちらは昭和の大名人です。生まれ変わりかな。
●[ほ]本名を出淵次郎吉、晩年の号を無舌という(○)
次郎吉という名前が江戸時代の人らしいですね。明治25(1892)年に病を得ていったん廃業し、「無舌」と号したそうです。その後もあちこちで上演記録がありますので、「無舌」は有名無舌、失礼、有名無実だったのかも。戒名は「三遊亭圓朝無舌居士」だそうです。ちなみに六代目圓生の戒名は「松寿院圓生日栄居士」とのこと。
◆参考:HP「圓朝・圓生 百年」
http://www.edo.net/hyakunen/
◇HP「三遊亭圓朝 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%93%E6%9C%9D
◇HP「落語のあらすじ 千字寄席   : 落語家を笑え(物故者編)」
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/cat4428570/index.html

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