美少年敦盛を殺害した熊谷次郎直実。頭を丸めたホントの理由は?

画像

問題:一ノ谷の合戦で笛の名手にして美少年の平敦盛と一騎打ちして勝ち、武名をあげた熊谷次郎直実(なおざね)氏についてのクイズです。
●彼は戦争の残酷さに心をいため、戦後は坊主となって敦盛その他の霊をなぐさめるべく、あちこちに寺を建てたそうです。でも一説には、熊谷次郎直実が出家したのは、別の理由があるとも言われます。どんな理由でしょうか?
□[い]裁判に負けて領地を奪われてしまった
□[ろ]女に騙されて家宝を奪われてしまった
□[は]胸の病に冒されてファイターとしてリングに上がれなくなった
□[に]これまでに殺してきた敵が亡霊となって現われ、お祓いが必要になった
□[ほ]痔疾のため馬に乗れなくなった
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)


























正解:[い]が正しい
説明:●熊谷次郎直実は、埼玉県熊谷市あたりにいた武士だそうです。そもそもは平氏系だそうですが、平氏についたり源氏についたりしていました。これは彼だけでなく、当時の武士はみんな命がけで風を読んでいたらしい。たとえば、北条氏や三浦氏も本来は平氏ですが、頼朝の人物と勝ち運に賭けて成功しています。
●頼朝に領地を安堵され、源氏方として参戦します。そのときの人数は、熊谷次郎直実当人と息子、旗持ち1人、足軽8人で合計11人。馬は直実と息子と旗持ちが乗り、直実と息子用の替え馬が2頭で合計5頭ぐらいと推定されています。「いざ鎌倉」の忠誠心を具体化するとこんな感じなのかな。
●ところが戦後、領地は叔父である久下直光(くげなおみつ)という人物と訴訟になってしまいます。熊谷は腕っぷしは強くても弁の立つ人ではなかったようです。裁判の途中で席を立ち、出家すると言い残して帰ってしまったとのこと。頼朝は心配して探させましたが、止められなかったらしい。建久3(1192)年のことだそうです*3。
●熊谷は京都の黒谷という場所で法然の弟子となります。蓮生(れんしょう、れんせい説もあり)と号したとのこと。建久6(1195)年には鎌倉に下り、頼朝の前で仏道や兵法を語り、聞く人を感動させたと言われます。
●ちなみに、東京や京都にある老舗文具屋「鳩居堂(きゅうきょどう)」の店主は、熊谷次郎直実の子孫であると称しているとのこと*2。
◆参考*1:HP「熊谷次郎直実が世間に知られるようになったきっかけは? 町人思案橋・クイズ集/ウェブリブログ」
http://blog.q-q.jp/200602/article_63.html
◇*2HP「熊谷直実 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E6%AC%A1%E9%83%8E%E7%9B%B4%E5%AE%9F
◇*3HP「中山道を歩く(11)」
http://park14.wakwak.com/~nakama/Nakasendo/sec011/naka_c_11.html

ぬけられます→歴史雑学クイズ一覧

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • もし鎌倉時代末期の武士が軍事的窮地に立ったらどうする?

    Excerpt: ●●●●●★● 問題:●想像の問題です。もしあなたが鎌倉時代末期の武士だとします。ある武士と領土争いが起き、実力で決着をつけなければなりません。でも、味方は戦さに弱く、窮地に立たされています。あな.. Weblog: 町人思案橋・クイズ集 racked: 2007-06-18 06:42
  • 女犯の罪で男根切断。ひどい処刑をされた美男僧は誰の弟子だったの?

    Excerpt: ●●●●●★歴史★● 問題:ある美男僧のお話です。顔立ちだけでなく、声もたいへんよかったらしい。この僧とコンビを組んでいたもう一人の僧侶も美声だったとのこと。2人が念仏を唱えたり、「六時礼讃(ろくじ.. Weblog: 町人思案橋・クイズ集 racked: 2012-03-21 06:48
  • 東国に下った僧侶が馬と交換されてしまう原因は?

    Excerpt: ●●●●●★歴史★● 問題:参考資料*1の「古事談」という鎌倉時代初期の説話集に、不思議な話が掲載されていました。ある僧侶が東国に下り、修行していたそうです。法華経に凝っていたらしい。 ■ところが.. Weblog: 町人思案橋・クイズ集 racked: 2015-05-23 09:15