釜ゆでの刑にされたのは石川五右衛門ではなくその母親だったってホント?
問題:●五右衛門風呂に入ったことはありますか? 風呂桶が大きな鉄のお釜になっています。下で薪を燃やします。
●構造は単純です。でも、使い勝手はよくない。とくに釜の底は熱い。じかに触れると火傷します。板が敷いてあります。
●板は底に留めてあるわけではないので、人が出るとプカプカ浮いてしまいます。次に入る人は、足で板を上手に押さえ込みながら入ります。底だけでなく、ふちもけっこう熱い。上手に出入りするには、少し経験が要りました。別に下駄を履いて入るタイプもあると聞きます。
●五右衛門風呂の名前の由来は、五右衛門の処刑方法にあると言われます。では、五右衛門の処刑に関する記述で、正しいのはどれでしょうか?
□だんだん熱くなる湯の中で、「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と辞世の歌を詠んだ
□五右衛門自身は何も入っていない大釜で煎り殺された
□母親は釜ゆでの刑に処せられた
□当時は大釜が少なかったので、母親と五右衛門、それに子供たちまで一緒に煮殺された
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)
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正解:「五右衛門自身は何も入っていない大釜で煎り殺された」と「母親は釜ゆでの刑に処せられた」が正しい
説明:●五右衛門の処刑の記録によると、連座して肉親も皆殺しにあったようです。母親は熱湯で煮殺されたらしい。熱さに泣き叫んで死んでいったと記録にあるそうです。五右衛門自身は、「煎り殺された」と書かれているらしい。ゴマを乾煎り(からいり)するように、熱湯も油も入っていない釜の中で殺されたとする見方が多いようです。
●処刑の際、悠々と辞世の歌を詠む余裕はなかったそうです。すぐに死んだらしい。肉親たちも残虐に殺され、自身も残忍な方法で殺されるわけです。剛胆な五右衛門も恐怖とショックで亡くなったのかもしれません。辞世の歌は、あらかじめ処刑スタッフに渡しておいたのかな。
●五右衛門が処刑されたのは文禄3(1594)年だそうです。このころの言葉遣いで「煎る」は「油で揚げる」の意味だという主張もあるようです。これに従えば、油で煮殺されたことになります。五右衛門の素揚げですね。まずそうだな。
●ちなみに、五右衛門とその子供は一緒に煎り殺されたとする話はあります。別のやり方で殺されているので、五右衛門の母親とは一緒に釜には入らなかったのでしょう。五右衛門は、自分が耐えられるだけ子供を差し上げていたという説があります。ホントならちょっとした美談かな。逆に子供を踏んづけて熱さから逃れようとしたという説もあるそうです。このへんははっきりしないようですね。
◆参考:書籍「樋口清之博士のおもしろ雑学日本史」初版207~208頁、樋口清之著、三笠書房
◇HP「石川五右衛門 – Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
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この記事へのコメント
石川五右衛門は、歌舞伎「楼門五三桐」(さんもん ごさんのきり)や落語「お血脈」(おけちみゃく)などにも登場しますね。日本人の精神世界の中ではなかなかの重要人物です。
単なる大泥棒というだけでなく、公開処刑されたその方法が芝居がかっていたので、人々の記憶に残ったのでしょうか。油で揚げられたのか、現在の言葉遣いで言うところの「煎られた」のか。ちょっと知りたい。
でも証拠はなかなか出てこないでしょうね。
(^^;)
「地獄で会おう」は悪事を働く度胸のある人たちの間では定番の台詞ですね。
五右衛門が「秀吉も地獄行き」と感じていたのかもという指摘に賛成です。なにかしら自分との共通点を見いだしていたのでしょう。
だいたい、天国に行く人物よりは地獄行きの人物のほうが面白いですよね。
(^^;)
秀吉は高齢になってからは常軌を逸した行動が見えてくるそうです。
豊臣秀次に対する処遇などはその典型で、リーダー失格と言われても仕方がないのでしょうね。
(^^;)