東大の赤門と希代の子沢山。両者には深い関係がある?

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問題:●江戸時代きっての艶福家といえば、フィクションでは世之介(好色一代男の主人公)でしょう。ずいぶんもてたらしい。お金もつかったようですが。
●江戸時代きっての子沢山といえば、11代将軍家斉(いえなり)の名前が挙げられます。家斉は将軍職をつとめたのが天明7(1787)年~天保8(1837)年という長期政権でした。68歳まで生きたと言います。当時としては長寿ですね。
●この人生の間に、彼は55人の子供をもうけたと言われます。江戸時代の将軍ですから、女に不自由はしません。大奥に行けばいくらでもピチピチした女性がいたわけですね。実際、側室は勘定できないほどだったらしい。
●普通、女好きでも体力がついていかないので、そんなに漁色にふけることもできません。家斉は偏食をせず、たいへんそちら方面も強かったと聞きます。見習いたい。
●では、現在の東大の赤門と、家斉の関係は次のどれでしょうか?
□加賀藩の当主が若くして続けて亡くなったので、気の毒に思った家斉が助言し、縁起のいい赤い門で厄を払った
□家斉も初めの5年ほどは子供ができなかった。江戸城の鬼門にあたる前田家の敷地内に赤い門を建てることで家運隆盛を祈ったら、ポコポコ子供ができた
□たくさんの子供たちは、大名家に養子として押しつけられた。前田家には家斉の娘がやってきたので、彼女を歓迎しているというポーズのために赤い門を作った
(答えはずっと下↓ スクロールして下さい)


























正解:「たくさんの子供たちは~」が正しい
説明:●家斉の子供たち55人のうち、約半分は女性でしょうし、次の将軍になれる人物は1人だけです。残りはみんなあちこちの大名に養子として押しつけられたそうです。尾張徳川家は4人も押しつけられたと言われます。
●55人のうち、無事結婚できたのは37人で、18人が病死したり病弱のため生涯独身だったとのこと。生涯独身は必ずしも不幸ではないかもしれませんけど、早死は可哀相ですね。
●加賀百万石には溶姫(やすひめ)という娘さんが養子として与えられたそうです。前田家は外様であり大藩です。幕府には睨まれやすい立場です。溶姫のお輿入れ(おこしいれ)には大変気をつかったらしい。立派な御守殿(ごしゅでん)を建てました。その門が赤門だったそうです。ちなみに御守殿とは、身分の高い大名に嫁いだ将軍の娘およびその住居を指す言葉だそうです。
●なお、大奥には「御褥(おしとね)おすべり」という習慣があり、30歳を超えた女性は、御台所(みだいどころ=正妻)ですら夜の伽ぎは出来なかったそうです。10代20代の若い女性ばかりだったんですね。女性の魅力が出るのは30過ぎてからという人もいますが、歴代将軍閣下は、色の道を極めるなんて贅沢はできなかったのかな。
◆参考:書籍「樋口清之博士のおもしろ雑学日本史」初版215~219頁、樋口清之著、三笠書房

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この記事へのコメント

sadakun_d
2016年08月28日 17:54
東大の赤門(加賀藩)・・・・12代将軍家斎の溶姫(やすひめ)のために‘赤い門‘

その後の溶姫の加賀藩での活躍が気になりますね。(子孫がいたりして
sadakun_d様<素町人
2016年08月28日 20:20
コメントをありがとうございます。

 溶姫は、幕末の混乱期に朝敵である幕府とうまく立ち回りたい大藩の都合に振り回され、気の毒な晩年だったようですね。慶應4年/明治元年(1868年)に亡くなっているそうです。
(^^;)
sadakun_d
2016年08月29日 17:15
この「明治維新」と同時に‘徳川(三河武士)は反逆の武士‘は気に入らないなあ(と三河出身は愚痴る)

戊辰戦争で‘わが先祖さま‘は三河武士ゆえ江戸をぼわれて‘愛知県(三河)に帰還された‘んですけどね。

溶姫(徳川さん)・・外様の加賀藩と幕府のつなぎを腐心していたら‘明治維新‘がきて・・・あら大変だがね(かな
sadakun_d
2016年08月29日 17:15
この「明治維新」と同時に‘徳川(三河武士)は反逆の武士‘は気に入らないなあ(と三河出身は愚痴る)

戊辰戦争で‘わが先祖さま‘は三河武士ゆえ江戸をぼわれて‘愛知県(三河)に帰還された‘んですけどね。

溶姫(徳川さん)・・外様の加賀藩と幕府のつなぎを腐心していたら‘明治維新‘がきて・・・あら大変だがね(かな
sadakun_d
2016年08月29日 17:18
11代 家斉の子供たち55人・・・12代家慶は26人。これだけあっても・・13代は「子なし」で断絶して・・・

どう理解したら・・・
sadakun_d様<素町人
2016年08月29日 18:03
コメントをありがとうございます。

 12代将軍は子宝に恵まれていましたが、20人以上いた子供のうち、成人できたのは家定氏だけだったらしい。13代目を襲名した家定氏も病弱で30代半ばで没しちゃったとのこと。
 不思議な現象ですね。以前ご紹介した柳沢吉保の家系の短命は、水銀とか鉛の入った白粉が原因という仮説があるとのこと。乳母が乳房にまで白粉をはたき、乳児の口から毒が体内にまわった可能性があるとか。
 12代家慶の子供たちがみんな短命な理由もきっとなにかあるのでしょう。医学者たちが解明してくれるといいのですが。
(^^;)

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